永遠の命を求めた青年

マルコの福音書10章17節~31節

今日は永遠のいのちを求めてイエスのところに来たお金持ちの青年から学びます。当時パリサイ人律法学者たちが議論していた「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に暮らすことができるいのちのことではありません。彼らが議論していた「永遠のいのち」とは、天の御国、天国について、どのように神の戒めを守れば、天の御国はいることができるのかを議論していたのです。彼はイエスに尋ねました。17節「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」「何をしたら」という意味は、「どのように神の戒めを守れば」と言う意味です。パリサイ人律法学者たちも、神のどの戒めをどのように守れば永遠の命を得ることができるのか議論していました。そこで、この青年はイエスなら何と答えるかを期待して、何をしたら天国に入れるような正しい人間になれるのかを尋ねたのです。イエスは彼に言われました。19節「殺してはならない、姦淫をしてはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、だまし取ってはならない、あなたの父と母を敬え。」この戒めは神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた「十戒」の後半の戒めです。「十戒」は、前半と後半に分けられ、前半は神と人間との関係の戒め、後半は人間同士の関係についての戒めと分けられています。イエスはそのうちの後半の戒めについて彼に説明されました。それを聞いて彼はイエスに答えました。20節「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」この青年は裕福な家庭で厳しくしつけられて育てられたのでしょう。彼は自信をもって「それらすべてを守っている。」と答えました。確かにイエスが言われた戒めを、ことば通りに守ることはそんなに難しいことではありません。しかし、心の中においてはどうでしょうか。マタイの福音書5章27節で「姦淫してはならない」という戒めに対して、イエスは28節「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」と言われました。この青年のように、実際に姦淫の罪を犯す者はそれほど多くはないでしょう。しかし、情欲を抱いて女性を見ることは、男性であるならだれでも、一度や二度はあることではないでしょうか。人間は心の中まで制御することはできません。しかし、神は私たちの心の中を見られるお方です。実際に罪を犯すよりも、その前の心の状態を知るお方です。イエスはそんなことを知ったうえで、彼にこのように言われました。21節「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っているものすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」22節「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」とあります。イエスはすべての人に財産を貧しい人に与え、自分についてくるように教えているわけではありません。この場合、彼が永遠のいのちを自分のものにするために障害となっている物が財産であったということです。イエスはそれを知って彼に、財産を手放すように告げましたが、彼は財産を手放すことができずにイエスの前から立ち去ったのです。

イエスはこの青年のことを通して、このように弟子たちに言われました。23節「富を持つものが、神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」このことばに弟子たちは驚いたとあります。当時、お金持ちほど神に近く、貧しい者ほど神から遠く離れていると考えられていたからです。さらにイエスは重ねて言われました。24節25節「子たちよ(富に頼る者が)神の国に入ることは難しいことです。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」イエスの生活している環境の中で、らくだは大きな動物の代表とされていました。また、そのらくだが小さな針の穴を通ることは、不可能なことのことわざとして使われていました。それゆえ、お金持ちが神の国に入ることがどんなに難しいことかをイエスはこのことわざを通して言われたのです。それを聞いた弟子たちはますます驚いたとあります。お金持ちでさえ神の国に入ることができないなら、だれが入ることができるのか。富は、家を守る城壁のようなものです。高く頑丈であればあるほど人は安心します。財産も多くあればあるほど、人は財産に頼って生きて行こうとします。お金持ちの青年が財産を手放すことができなかったのは、彼が自分は財産によって守られていることを知っていたからです。それゆえ、彼はそれを手放して、見えない神様に頼る生活に入ることができなかったのです。人は財産があればその財産に頼ってしまいます。しかし、永遠のいのちを持つということは、神様だけに頼って生きることを意味していますから、お金持ちほどその財産を手放すことが難しく、お金持ちほど神の国に入ることができないとイエスは言われたのです。弟子たちはイエスに尋ねました。26節「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは弟子たちに言われました。27節「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」律法学者パリサイ人たちは、神の戒めを完全に守り天の御国に入ろうと努力しました。しかし、イエスははっきりと、それは人にはできないと断言されました。救いは神のみが行う奇蹟で、私たち人間は一切それに関与することはできません。では、神はどのようにして私たちを救ってくださるのでしょうか。それは、「十字架の贖い」においてです。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして死ぬために誕生し、神の計画に従ってご自分のいのちを犠牲にされました。私たちはその贖いを信じる信仰によって罪が赦され、天の御国はいることが許されるのです。棒高跳びの世界記録が6m17cmだそうです。人間がどんなに努力しても、6m17cmです。しかし、私たちが飛行機に乗ればどれほど高く飛ぶことができるでしょうか。乗客が努力して空を飛ぶわけではありません。飛行機自体が乗客を乗せて空を飛ぶのです。同じように、私たちが努力して天の御国に入るのではなく、イエス・キリストが備えてくださった救いの恵みによって天の御国に入るのです。しかし、それは、ユダヤ人にとっては、つまずきだったでしょう。あの偉大な神が罪人のために、人となり十字架の上で死ぬなど考えられないことです。しかし、イエス・キリストはそれを実行されました。なぜなら、神にはどんなことでもできるからです。人間にとっては、不可能なことでも、神は私たちを愛しているがゆえに、大きな決断をし、人として生まれ、十字架の上で死んでくださったのです。これは、人間の知恵では理解できないことです。

ペテロがイエス様に言いました。28節「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」確かに、ペテロやヤコブ、ヨハネは漁師でありながら、その財産である舟を捨ててイエスに従って来ました。イエスは彼らに言われました。29節30節「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今の世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます。」イエスはこの個所で、永遠のいのちを得るということは迫害が伴うことを教えています。また、それだけではなく、「家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受ける」と約束されたのです。また、最後にこのように言われました。31節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」

イエスはその意味をマタイの福音書20章のぶどう園で働く労務者のたとえで説明しています。ここで朝早くから一生懸命働く労務者を律法学者パリサイ人、最後の5時ごろに雇われた人を貧しい人や異邦人を表しています。結局、最後に雇われた人から賃金が払われましたが、その金額は一日分の賃金でした。それは、働いた報酬ではなく、主人からの恵みでした。朝早くから働いた労務者にも賃金が支払われましたが、その賃金は5時から働いた者と同じ金額でした。このたとえ話は、天の御国は努力した割合によって与えられるものではなく、神の恵みであることを表した例え話です。つまり、自分の力に頼り天の御国に入ろうとした律法学者パリサイ人たちは神に退けられ、イエスのことばを信じた貧しい人たちが先に天の御国に招かれたという意味です。