マタイの福音書10章34節~38節
先ほどお読みしました、マタイの福音書10章34節~36節は読む人に誤解を与える箇所です。34節「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。」とイエスは言われました。普通考えるならば、地上に救いをもたらすためにイエスは来られたわけですから、平和をもたらせるためだと言えます。しかし、平和ではなく、さらに剣をもたらすために来られたと言われました。「剣」とは争いを起すためだという意味です。それはどういう意味なのでしょうか。35節「わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。」36節「そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」とイエスは言われました。日本の仏教は檀家制度の影響で、お寺と家との繋がりを重視します。そういう意味では家の宗教ということができます。それと比較してキリスト教は神と個人との関係を重視します。親が熱心なキリスト教徒でも、その子どもたちが望まなければクリスチャンなることはできません。
キリスト教で一番大事なことは、神を第一として崇めることです。旧約聖書の十戒に「父と母を敬え」という、神の戒めがあります。それゆえ、クリスチャンは父と母を大切にします。しかし、それは、神以上ではありません。あくまでも、信仰は創造主なる神が第一となり、家族はその下に位置します。そういう意味でイエスはこのように言われました。37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」この世の教えは、父、母、家族を大切にすることを教えます。それゆえ、私たちがイエス・キリストを真の神と信じる時、父と母との争いや、家族との争いが結果として起こる事をイエスは言われたのです。クリスチャンは家族を大切にします。しかし、それが、神以上になるとき、それは、イエスを神と信じる者にふさわしい姿ではないとイエスは言われたのです。
38節「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とイエスは言われました。イエスが言われた「自分の十字架」とは何でしょうか。それは、神から一人一人に与えられる「使命」のことです。神は私たちに無駄にいのちを与えられたわけではありません。神は私たち一人一人にすばらしい計画を持っていのちを与えてくださいました。私たちの人生に喜びや悲しみがあります。私たちは、普段、良い出来事は神から与えられ、禍などの悪いことは悪魔から与えられると考えてしまいます。しかし、それは、事実ではありません。神が全てを支配しておられるなら、良いことも、悪いことも神から与えられたものです。それでは、神は私たちを苦しめるために、病や災害を与えられるのでしょうか。そうではありません。神が与える苦しみには意味があります。その時にはわからなくても、後になってわかる時があります。たとえば、ゴスペル歌手のレーナ・マリアさんは、生まれつき両腕がなく、足も片足短く生まれました。日本では、呪われた子として、人前には出さないでしょう。しかし、レーナ・マリアさんのご両親は、彼女をそのまま受け入れ、普通の子として育てました。そして、彼女は神によって与えられた賜物、歌声によって世界中で神の素晴らしさを証しする者となりました。星野富弘さんも、事故で体を自由に動かすことが出来ない体になってしまいました。普通なら、不幸な出来事で終わってしまいます。しかし、彼は神と出会いクリスチャンとなり、その不自由な体の中で、自由になる口に筆をくわえ、絵を書き、詩を作りました。彼の絵と詩によって多くの人々が慰められ、生きる力を得ました。病気や障がいを持つことが良いわけではありません。与えられた環境や境遇を神からのものとして受け入れ、神により頼むことが大切なことです。
「十字架」は、苦しみだけではありません。神が与えてくださった「十字架」には、神の助けと恵みが伴います。神は責任を持って「十字架」を背負う者に力を与えて下さるお方たです。マタイの福音書11章28節~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とイエスは言われました。「わたしのくびき」とは、神が私たちに与える「自分の十字架を負ってイエスに従う」ことと同じ意味ではないでしょうか。コリント人への手紙第一10章13節「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」とあります。
イエスが死刑の判決を受け、鞭打たれ、兵士たちに辱められた後、イエスは十字架を担がされ、十字架に付けられて殺されるために、ゴルゴタに向かわれました。その途中、イエスの十字架をむりやり背負わされた人がいました。マルコの福音書15章21節「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」とあります。彼はイエスの弟子でも何でもありません。無関係の人です。ただ、通りすがりにイエスの姿を見ていただけです。彼のような人は、他にも大勢いました。ところが、兵士は彼を呼び出し、彼にイエスの十字架を背負わせたのです。何という災難でしょう。十字架を背負うことは犯罪人のすることで、誰も十字架など背負いたくないものです。しかし、彼は兵士に選ばれ、無理やりイエスの十字架を背負ってイエスの後をついて行く事になりました。彼は、なんと自分は運が悪い者かと兵士やイエスを恨んだことでしょう。マルコの福音書は彼のことを「アレキサンドロスとルフォスの父で」と紹介しています。また、パウロが書いたローマ人への手紙16章13節「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また、彼と私の母によろしく。」とあります。このルフォスがシモンの子であるなら、シモンが家に帰った後、彼も家族もクリスチャンとなり、よい働き人になっていたことが想像されます。
シモンは、以前はイエス・キリストと何の関係の無い者でした。しかし、兵士に選ばれ、無理やりイエスの十字架を背負わされることによって、イエスの十字架を背負い、イエスに従い、イエスの弟子となりました。それだけではなく、家族も共にイエスを信じる者になったということです。実際にイエスの十字架を背負ったのは彼だけでした。彼はその事を証しし、人々に伝えたことでしょう。イエスの十字架を背負わされた時、彼は災難と思ったことでしょう。しかし、それが、後になって、彼の証しとなり、神の栄光とされたのです。
私たちの人生はどうでしょうか。私たちの人生が苦しみや何の問題もない人生という事はありえません。もし、そのような人生を歩んだとしたら、その人はどれほど傲慢な人間になったことでしょう。誰にでも、苦しみ悲しみはあります。たとえ、神を信じていても苦しみや悲しみはあります。しかし、私たちの祝福は、悲しみや苦しの中にあっても、神が共におられ、私たちを助け、脱出の道を備えてくださるということです。今は、苦しみや悲しみや問題があるかもしれません。しかし、その先に、神の祝福と神の栄光を拝する時があることを信じるなら、私たちはどんな苦しみの中でも、希望を失うことなく、生きる力を失うことはありません。それが「自分の十字架を背負う者」に与えられた神の祝福なのです。