ヨシュア記7章1節~5節
先週は、城壁に囲まれたエリコの町の攻略について学びました。エジプトを出たイスラエルの民は約二年間をかけて荒野を歩き、神の約束の地カナンに近づきました。ここで、神はモーセに命じて、12名の偵察隊を送りました。彼らは40日をかけてカナンの地を偵察し、モーセとイスラエルの民の所に帰ってきて報告をしました。その内の10名は、カナンの地は豊かな地ではあるが、高い城壁の町があり、背の高い民族が住んでおり、私たちの力ではその地を征服することは出来ないと報告しました。しかし、ヨシュアとカレブは、神が共におられるので、ぜひ、私たちは前に進み、カナンの地を征服すべきだと叫びました。しかし、イスラエルの民は10名の意見に戦意を失い、エジプトに帰ろうと言い出しました。イスラエルの民は、彼らの不信仰のゆえに荒野で40年さまよい歩くことになったのです。
それから40年が経ち、エジプトに帰ろうと言い出した大人たちは、ヨシュアとカレブ以外は亡くなり、40年の間に成長した新しいイスラエルの民が新しい指導者ヨシュアに仕えることになりました。彼らがカナンの地に近づいた時、ヨシュアは二人を選んで、カナンの地を偵察するために送り出しました。彼らは遊女ラハブの家に滞在しました。ラハブは二人をかくまい、自分と家族の命を救うように二人に願いました。二人は無事にイスラエルの民のもとに帰り、エリコの町の人々が自分たちを恐れていることを報告しました。また、神はヨシュアに特別な命令を与えました。それは、戦士と共にエリコの町の周りを1回まわる事、それを六日間続けて、七日目は町の周りを七回まわり、大声でときの声をあげよ。そうすれば、城壁が崩れるという命令でした。イスラエルの民が神の命令に従うと、エリコの城壁は崩れ、イスラエルの民はカナンの地を簡単に征服することができました。そして、ラハブとその家族は約束通り、助けられイスラエルの民の中に住んだとあります。
ヨシュア記7章はアイという町の攻略の話しです。ヨシュアはエリコの町の攻略の後、アイの町を攻略するために偵察隊を送りました。ヨシュア記7章3節「彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。『民をみな上って行かせるには及びません。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを討たせるとよいでしょう。彼らはわずかですから、民をみな送って骨折らせるにはおよびません。』」ここでヨシュアは神に祈ることもせず、彼らの意見に従い、三千人が戦いに上って行きました。4節「そこで民のうち、およそ三千人がそこに上って行ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。」とあります。彼らが失敗した理由は、(1)神に祈らなかったこと。(2)エリコに勝ったことで慢心(高慢)により、アイの人々の力を低く見たこと。(3)アカンの隠れた罪がありました。ヨシュアは自分たちの罪を認めて、悔い改め神に祈りました。神はヨシュアに言われました。11節12節「イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中にいれることまでした。だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにいない。」ヨシュアは、翌朝早く部族を集め、くじによって誰が罪を犯したのか探しました。するとアカンの名が挙がりました。20節21節「アカンはヨシュアに答えた。『確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。』」と告白したのです。アカンの天幕からそれらの物が見つかり、ヨシュアのもとに置かれました。神はカナンの物すべてを聖絶するように命じていました。しかし、アカンは金銀を見て、誘惑に負けて自分の物とするために自分の天幕にそれらを隠したのです。アカンはイスラエルの民によって石を投げられて殺され、盗まれた物は火で焼かれました。神はヨシュアにアイの攻略法を教え、ヨシュアとイスラエルの民はアイの町を征服することが出来たのです。
私たちは自分の罪について軽く見ているところがあります。罪とは、神の前に覚えられているものであり、その罪は終わりの日に神の前に明らかにされ、その罪の大きさに従って私たちは、神により裁きを受ける者です。一日に一度罪を犯したとします。すると1週間で七回罪を犯したことになります。一年では365回罪を犯したことになります。10年では、3650回となります。自分の年齢を計算してみるとどれほど多くの罪を犯したことになるでしょう。そんな者が何もしないで天国に入ることが出来るでしょうか。昔「パッション」という映画を見ました。監督のメルギブソンは、この映画でイエス・キリストが受けた苦しみを描きたかったと言いました。まさに、この映画はイエス・キリストがどのような苦しみを受けられたかが良く描かれていました。イエスが鞭で打たれた時、周りに血しぶきが飛び散りました。アメリカでは、この映画を見て、気分が悪くなった人や、気絶して倒れる人が出たと伝えられました。私自身もこの映画を見た時、心が痛みました。なぜ、イエス・キリストはこれほどの苦しみと痛みを負わなければならなかったのか。旧約聖書の神と新約聖書の神は同じ神です。しかし、旧約聖書の神は罪を裁く神です。それゆえに、アカンは自分が犯した罪のゆえに死ななければなりませんでした。本来、私たちも罪を犯した者として、神の裁きを受ける者でした。しかし、聖書は、イエス・キリストは全ての人の罪を背負って、十字架の上でいのちを犠牲にされたとあります。イエス・キリストの十字架の苦しみと死は、私たちの罪の身代わりとしての苦しみと死でした。しかし、多くの人々は、自分の罪の重さがわからず、イエス・キリストの死は二千年前の出来事で、今の私と何の関係があるのですかと言います。確かに、自分の罪の重さが分からない人には理解できないでしょう。しかし、自分の罪の重さが分かる人には、二千年前であっても、イエス・キリストが神の子であるなら、イエス・キリストは全ての人の罪の罪過を支払ってもあり余るだけの価値あるいのちなのです。そのいのちが十字架の上でささげられ、イエス・キリストは死より三日目に復活し、天に昇られ今も生きておられると聖書は私たちに教えています。もし、私たちが自分の力で罪の問題を解決できるなら、イエス・キリストはこの世に生まれてこなかったでしょう。また、十字架で死ぬことはなかったでしょう。イエス・キリストの誕生と十字架の死は、私たちに与えられた神からの恵みです。イエス・キリストを神の子と信じるなら、だれでも罪が赦され、天の御国に招かれる。これが福音であり、神の約束です。私たちの罪は神の前にどれだけ積み上げられているでしょうか。私たちはその問題をどのように解決することが出来るでしょうか。私たちは生きている間にこの問題に答えを出さなければならないのです。