ルカの福音書5章1節~11節
今日はイエスとペテロの出会いについて学びます。出会いというのも色々あります。人生を変える出会いもあれば、忘れてしまう出会いもあります。牧師として多くの人との出会いがあります。忘れられない出会いもあれば、申し訳ありませんが、忘れてしまう出会いも多くあります。こちらは覚えていなくても、相手は良く覚えているということがあります。そんなときは、非常に申し訳なく思う時があります。
66歳を迎えて、人生を振り返ってみると、多くの大切な出会いがあったことを覚えます。ある時は、励ましを受け、慰められ、助けられたこともあります。また、その人との出会いによって、教えられたこともたくさんあります。人との出会いが人生を変える力があるなら、神との出会いはどれほど私たちの人生を変える力があるでしょうか。ペテロはガリラヤの漁師でした。その彼がイエス・キリストと出会うことによって、イエスの弟子となり、神のことばを伝える伝道者に変えられました。それは、彼自身から出た力ではなく、神の助けと導きがあってのことでした。神との出会いは一度や二度の出会いではなく、毎日が神との出会いです。そのために祈りがあり、祈りによって私たちは神に近づき、少しづつ神に喜ばれる者に変えられていくのです。
1、福音書のおけるイエスとペテロの出会いの違い
イエス・キリストの生涯について、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが福音書として聖書にまとめられています。しかし、すべてが全く同じではありません。それは、聖書は神のことばですが、神はそれぞれの著者を通して描かれたからです。決して彼らは、自分の手が勝手に動いて書いたのではありません。マタイはマタイの経験と人格をとして書かれています。また、マルコもそうです。マタイ、マルコ、ヨハネはユダヤ人ですが、ルカは異邦人(ユダヤ人ではない民族)です。3人は直接イエスとの面識はありますが、ルカ一人はイエスと一度も出会っていません。しかし、ルカはパウロの同労者として共に働き、イエスのことを調べて、ルカの福音書を書きました。また、マタイはユダヤ人にイエスが旧約聖書で約束された救い主であることを伝えるために、マタイの福音書を書きました。ルカはローマの高官であるテオフィロに、イエスが誰であるかをわかりやすく書いたのがルカの福音書です。ヨハネは、晩年になってイエスのことを回想してヨハネの福音書を書きました。それぞれ、書き方や目的が違うために、同じ場面においても違いがあります。イエスとペテロの出会いにおいても、マタイとマルコは、イエスが漁師であるペテロとアンデレに声をかけて彼らがすぐにイエスについて行ったように書かれていますが、ルカはもっと詳しくこの出来事を記しています。それは、求道者であるテオフィロにルカは、イエスとペテロの出会いを詳しく知らせたかったからではないでしょうか。
2、イエスのことばに従うペテロ
ルカの福音書5章1節と2節を見ると、ペテロはイエス・キリストには関心がなく、漁が終わり網を洗って片づけをしていたようです。そんなペテロにイエスから声をかけました。
ルカの福音書5章3節「イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。」とあります。シモン(ペテロ)はどのような思いでイエスの話しに耳を傾けたのでしょうか。はっきり聖書に記していませんが、ペテロはあまり興味がなかったのではないでしょうか。漁で疲れて、うとうとしていたのかもしれません。そんなペテロにイエスが声をかけました。4節「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」ペテロは驚いたのではないでしょうか。漁師でもないイエスがなぜそのようなことを言われたのか。また、自分たちは夜通し働いても魚が捕れなかったのに、今の時間に魚などいるわけがない。網など下ろしても魚が捕れるわけがないことをペテロは知っていました。5節「すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網をおろしてみましょう。』」ペテロは無駄だと思いながらも網を下ろしました。6節7節「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるように合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。」とあります。ペテロは驚いた事でしょう。イエスは彼らに言われました。10節「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。』」11節「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。この場面はペテロがイエスの弟子になったきっかけを表しています。もし、ここでペテロがイエスのことばに従わなかったら、彼の人生は変わることなく、生涯ガリラヤの漁師で終わっていたでしょう。ペテロにとってイエスは外から来た者です。また、漁師でもありません。普通ならば、そんなイエスのことばに従うことはないでしょう。しかし、ペテロはイエスが誰であるのか、どんな力があるのか知らないで、ただ、イエスの言われることばに従ったのです。すると、彼の想像を越えた出来事が起こりました。魚がいるはずがないのに、舟が沈みそうになるほどの魚が捕れたのです。彼はこの時、初めてイエスという方の力に驚いたのです。普通の方ではない、今まで会ったことのない力のある人であることを知ったのです。大切な事は、ペテロがイエスの力、権威を知らずにイエスのことばに従ったことです。私たちは神が理解出来たら神を信じると考えます。しかし、私たちが理解できる程度の神を、神として信じる価値があるでしょうか。神とは私たちの理解を越えたお方だからこそ、神として信じる意味があるのではないでしょうか。聖書は、聖書のことばを神のことばと信じた時に、神が誰であるかを知ることが出来ると教えています。聖書のことばをすべて理解することは出来ませんが、聖書のことばを神のことばとして信じた時、イエスの処女降誕や死よりの復活をも信じることが出来ます。ペテロはイエスが誰であるか知らない時に、イエスのことばに従うことによって神の力を体験することが出来ました。救いは神の約束です。それゆえ、イエスを神の子と信じた時、私たちは罪が赦され救われます。しかし、神との深い交わりは、私たちがペテロのように求めて行かなければ深まることはありません。もし、私たちが救いを私たちの感情に頼るならば、不安定なものになります。それは、私たちの感情は揺れ動くからです。ある時はイエスを信じていますが、ある時は信じていない感情に支配されます。しかし、救いは神の約束ですから、私たちの感情に関係なく、救いの約束は変わることはありません。しかし、神との関係は、求めれば求めるほど深くなります。私たちは祈りにおいて神に近づくことが出来ます。どうぞ、神を求め、神に愛されている事、すでに罪が赦されている事をさらに強く心に留めたいと思います。