湖の上を歩くイエスと助けを求める

マタイの福音書14章22節~33節

私たちは何のためにイエス・キリストを救い主と信じるのでしょうか。お金持ちになりたいから。有名になりたいから。病の癒しの為。それならば、他の新興宗教でもそれらのものは得ることが出来るでしょう。また、ある人は、天国に入るためという人もいるでしょう。確かに、それはイエス・キリストによる恵ではありますが、それが全てではありません。天国に入ることが目的であるならば、死の間際にイエス・キリストを信じますと告白すれば済むことです。(もちろん自分の思い通りに死ぬことはできませんが)確かに、罪が赦され天の御国に招かれることはキリスト教の大切な教えです。しかし、イエス・キリストの恵みはそれだけではありません。イエス・キリストは十字架に付けられて殺されて終わりではありません。死より三日目に復活して、天におられる父(神)の右の座におられ今も生きておられます。そのイエス・キリストがご自分の代わりに、聖霊を遣わすと約束してくださいました。聖霊は神と同じ人格の存在です。その聖霊が助け主として私たちに与えられます。私たちが望むなら、聖霊は私たちと共におられ、助け導いて下さる存在となられたのです。
マタイの福音書14章15節から20節に五つのパンと二匹の魚で、男性だけで五千人の人のお腹を満たすという有名な奇蹟が行われました。今日の箇所は、その後の出来事を記した箇所です。22節「それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗りこませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。」とあります。イエスは五つのパンと二匹の魚の奇跡によって興奮した群衆に弟子たちが巻き込まれないように、あえて、いそいで、弟子たちを舟に載せて先に向こう岸に送られたものと考えられます。23節「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に上られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」とあります。その間、弟子たちはどうしていたでしょうか。24節「舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。」とあります。25節「夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。」湖の上を歩いて来られるイエスの姿を見て弟子たちはどうしたでしょうか。26節「イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは『あれは幽霊だ』と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ」とあります。欄外のことばを見ると「とりみだし」とあります。弟子たちはパニック状態に陥りました。そんな弟子たちを見てイエスは言われました。27節「イエスはすぐに彼らに話しかけ『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」弟子たちはイエスであるとわかると、少しは安心したのでしょうか。28節「するとペテロが答えて、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。』と言った。」とあります。何と大胆な願いでしょう。また、ペテロらしい願いとも言えます。29節「イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。」とあります。ペテロは実際に水の上を歩いてイエスに近づきました。30節「ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、たすけてください』と叫んだ。」とあります。31節32節「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。」33節「舟の中にいた弟子たちは『まことに、あなたは神の子』ですと言って、イエスを礼拝した。」とあります。
この出来事は私たちに何を教えているでしょうか。一つは、イエスが神の権威をお持ちの方で、自然の法則を越えられた方、神の子であることを証明しています。それゆえ、弟子たちはイエスを「神の子」と呼び、イエスを礼拝したのです。この出来事が、後のマタイの福音書16章のペテロの「あなたは生ける神の子キリストです。」という信仰告白の基となった出来事です。もう一つのことは、イエスはペテロのような「信仰の薄い者(弱い者)」でもイエスに助けを求める者には、助けの手を伸べて下さるということです。旧約時代は、アブラハムやヨセフ、モーセやダビデと神は共におられ、彼らを助けられました。新約時代、イエスは、ご自分を神の子と信じる者に聖霊を遣わすと約束されました。イエスは天に昇って行かれましたが、イエスは約束通り弟子たちに聖霊をお与えになられました。イエスの復活の後、弟子たちが立ち直り、イエスの復活を宣べ伝えたのは聖霊の助けの故です。また、キリスト教が誕生したのも聖霊の働きがあったからです。
神の御心は、私たちが苦難に遭わないことではなく、苦難の中で神に助けを求、神に信頼することを学ぶことです。ダビデは、羊飼いの家庭に生まれましたが、神によってイスラエルの二番目の王に選ばれました。しかし、ダビデはすぐに王になったわけではありません。サウル王に命を狙われ逃げ惑う日々が続きました。その苦しみを通してダビデは神に信頼する信仰を学びました。王に就任してから、ダビデはバテ・シェバとの姦淫の罪を犯してしまいました。しかし、ダビデは悔い改め、神より罪の赦しを体験しました。また、息子アブシャロムの謀反によって命が危険にさらされました。ダビデは完全な王ではありませんでしたが、神は最後まで彼を守り愛されました。ダビデは神に感謝し自分の信仰告白として詩篇23篇の有名な詩を書きました。ダビデだけではなく、神に選ばれた人はすべて、苦しみに遭いますが、神の助けを得て、主の栄光を現わしました。そのことは、私たちも同じことが言えます。私たちクリスチャンは、苦しみに遭わない人ではなく、苦しみの中でも倒れない人です。なぜなら、神が共におられるからです。
ペテロは湖の上を歩くイエスを見て、自分も水の上を歩かせてくださいと願いました。イエスはペテロの願いを受け入れました。はじめペテロは水の上を歩くことが出来ました。しかし、強風を見て怖くなったとあります。イエスを見つめている時、ペテロはイエスの権威の下にいました。しかし、強風を見て怖れた時、自然の法則に支配される者になったのです。イエスの権威と自然の法則とどちらの権威が上でしょうか。ペテロは初め、イエスの権威を信じましたが、強風を見て自然の力を怖れたのです。信仰とは、どこまでもイエスの権威を信じることにあります。この世のどんな力よりも、イエスの権威が上であることを認める時、私たちの心は平安です。しかし、イエスの権威よりも、目に見える物を恐れる時、信仰が揺らぎます。しかし、それでも、イエスに助けを求めるなら、イエスはご自身の手を伸べて私たちを助けてくださいます。イエスはペテロの信仰の弱さを通して、そのことを私たちに伝えようとされたのです。苦しみの無い人生はありません。病や死から人は逃れることは出来ません。病や死に直面した時、私たちは誰に助けを求めたら良いでしょうか。確かに病の時、私たちは医者に頼ります。しかし、医者も人間で限界があります。私たちは医者に頼りますが、その背後で全てを支配しておられる神に頼る者です。たとえ、死が近づいても、私たちは死で全てが終わらないことを知っています。イエス・キリストはそのために生まれ、十字架の上でいのちを犠牲にされました。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、天の御国の住人とされたのです。苦しみには色々な意味がありますが、その一つに、苦しみを通して私たちは神に近づくことが出来ます。神は私たちの近くにおられます。私たちが神に助けを求めるなら、いつでもイエス・キリストがペテロに助けの手を伸べてくださったように。私たちを助けてくださるお方です。ペテロの出来事はその事を私たちに教える大切な出来事だったのです。