ルカの福音書22章54節~62節
先ほどお読みいたしました、ルカの福音書22章54節から62節は、イエスが捕らえられ裁判にかけらたときの場面です。この場面でペテロは三度もイエスとの関係を否定いたしました。そして彼は外に出て激しく泣いたとあります。今日はこの場面を丁寧に見て、イエスのまなざしとペテロの涙について学びます。
ルカの福音書22章1節から20節まで、ルカは過越しの食事の場面を描いています。またそれは、弟子たちにとって最後の晩餐となりました。この時、イエスは弟子たちにこのように言われました。21節22節「しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」弟子たちは驚いた事でしょう。23節「そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。」
とあります。彼らは互いに疑り合い、また、自分がイエスを裏切るのではと不安な思いを持ったのです。ここでイエスはペテロにこのように言われました。31節32節「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」これは不思議な文章です。サタンが神にペテロをふるいにかける(試練を与える)ことを願い出て、それが聞き届けられたということです。このことばからサタンの働きには限界があり、神の許可なしには人を苦しめることが出来ないことがわかります。しかし、なぜ、神はサタンの願いを聞き届けて、ペテロが失敗することを許可されたのでしょうか。その答えは32節のイエスの祈りにあるように思えます。イエスはペテロが立ち直り、兄弟たちを力づけることを知っておられました。それゆえ、神はペテロが失敗することをあえて許可されたのです。それを聞いてペテロはイエスにいました。33節「シモンはイエスに言った。『主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』」このことばは、ペテロの偽らざる本心です。ペテロは本当にイエスと共に死ぬことを覚悟したのです。しかし、そこに人間の意志の弱さを見ます。34節「しかし、イエスは言われた。『ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」ペテロはこのことばを聞いてどう思ったでしょう。マタイの福音書26章35節「ペテロは言った。『たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。』」と答えています。また、他の弟子たちも同じように言ったとあります。
この後、イエスと弟子たちはオリーブ山に向かわれました。そして、そこでイエスは汗が血のしずくのように地に落ちるほど父なる神に三度祈りました。しかし、そのような大切な時に弟子たちは眠っていたとあります。そして、十二弟子の一人、イスカリオテのユダがイエスを捕らえるために守衛長や長老たちを連れてやって来ました。イエスが捕らえられると、弟子たちは恐れてイエス一人を残して逃げて行ってしまいました。ペテロはイエスのことが心配で、遠く離れ彼らの後について行きました。54節55節「彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。」とあります。すると召使女がペテロに目を留め「この人も、イエスと一緒にいました。」と言いました。ペテロは驚いた事でしょう。57節「しかし、ペテロはそれを否定して、『いや、私はその人をしらない』と言った」とあります。ペテロは自分も捕まるのではないかと恐れたのです。これが一回目のペテロの否定です。58節「しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。『あなたも彼らの仲間だ』しかし、ペテロは『いや、違う』と言った。」ペテロの二度目の否定です。59節「それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。『確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。』」60節「しかし、ペテロは、『あなたの言っていることはわからない』と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに鶏が鳴いた。」とあります。ペテロはどう思たでしょう。ここで聖書はペテロの気持ちを記してはいません。61節「主は振り向いてペテロを見つめられた。」とあります。この時のイエスのまなざしはどのようなまなざしだったのでしょうか。決して、怒ったり、恨んだりしたしたまなざしではなかったと思います。赦しに満ちた、やさしいまなざしではなかたでしょうか。61節「ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。』と言われた主のことばを思い出した。」62節「そして、外に出て行って、激しく泣いた。」とあります。ペテロは自分の弱さ、ふがいなさを覚えて泣き崩れたのではないでしょうか。もし、ここで終わっていたら、ペテロも他の弟子たちもイエスの弟子として生きることは出来なかったでしょう。聖書はそこで終わっていません。イエスは死より三日目に復活して、その姿を弟子たちに示されました。そして、イエスは特にペテロのために姿を現わし、私を愛しますかと三度お聞きになられたのです。ヨハネの福音書21章15節「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛しますか。」とイエスはペテロに言われました。一度目の質問です。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」とペテロは答えました。以前のペテロであれば、だれよりも一番愛しておりますと答えたでしょう。しかし、今のペテロにはそんな自信はありません。ペテロは「あなたがご存じです」としか答えられなかったのです。イエスは彼に「わたしの子羊を飼いなさい」と言われました。二度目の質問は16節「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ペテロは「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。イエスは彼に「わたしの羊を牧しなさい。」と言われました。三度目にイエスはペテロに言われました17節「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」「ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。』」ペテロは三度イエスを知らないと言ってしまいました。ペテロはその事を思い出して心を痛めたのでしょう。このイエスとペテロの対話の中で大切な事は、一度もペテロが自らのことばでイエスに対して愛していると言わなかったことです。以前のペテロならば、喜んでイエスに誰よりもあなたを愛しておりますと言っていたでしょう。しかし、ペテロはなぜそれを言えなかったのでしょう。以前のペテロは自分の力、意志の強さを誇る者でした。しかし、イエスを三度も知らないと言ってしまったペテロの自信は打ち壊されてしまいました。自分に頼るものがなくなった今、ペテロはイエスの愛に頼るいがに何もなくなっていたのです。
これは、私たちの救いも同じことが言えます。救いの確信が自分の信仰の強さや良い行いにあるとしたら、それは、ペテロと同じようにいつか壊れてしまいます。私たちの救いは、私たちの正しい行いではなく、神の約束です。また、それは、神の愛と言っても差支えはありません。私たちの救いの土台は、神の愛とあわれみだけです。ペテロが三度イエスを知らないと言っても、イエスはペテロを捨てたり罰せたりしませんでした。イエスはあくまでも、ペテロが立ち直ることを信じて、兄弟たちを力づけてやりなさいと言われました。神が私たちに求めるのは、完全な信仰や完璧な人格ではありません。自分の弱さを受け入れ、すべてを神に委ねることです。それが、信仰です。パウロや他の弟子たちは自らの失敗によって自分の弱さを受け入れ、神に信頼し従う者に変えられたのです。失敗することは苦しいことです。しかし、失敗からしか学べないこともあります。ペテロや弟子たちは、失敗から自分の弱さを学び、神の赦しと愛を学んだのです。それこそが私たちにも必要なことです。キリスト者は罪が無い者完全な聖さを持つ者ではなく。罪赦された罪人でしかありません。私たちに必要なことは失敗しないことではなく、失敗しても悔い改めて神の赦しを求めることです。残念なことに、イスカリオテ・ユダはあまりの罪の重荷のゆえに、神に助けを求めないで、自ら死を選んでしまいました。イエス・キリストの十字架の愛はすべての人の罪を覆うことが出来る大きな愛です。私たちも自分の弱さを認めて、神の愛とキリストの十字架の贖いに目を留めたいと思います。