ヨハネの福音書12章1節~11節
ラザロを死より生き返らせる奇跡を行った後、ヨハネの福音書11章53節「その日以来、彼らは(パリサイ人たちは)イエスを殺そうと企んだ。」とあります。イエスがラザロを死より生き返らせることによって、イエスの人気は最高潮に達しました。そして、多くの人々がイエスの周りに集まるようになりました。それを見て、パリサイ人や祭司たちは、イエスを恐れ、このままにしておくことは出来ない、イエスを殺さなければならないと、考えるようになったのです。そういう意味で、ラザロを死から生き返らせることによって、イエスの十字架の死が始まったとヨハネは記しているのです。
1、イエスの足に香油を注ぐマリア(ヨハネの福音書12章1節~11節)
ヨハネの福音書12章3節「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(382グラム)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。イエスの周りにいた人々は、マリアの突然の行いに驚いた事でしょう。4節5節「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。『どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」金を預かっていたイスカリオテのユダは、この香油が三百デナリもする高価な香油であることに気づいていました。一デナリが一日の労働賃金と言われています。すると三百デナリとは、三百日分の労働賃金に値する金額です。お金を預かっていたイスカリオテのユダは、あまりにも高額な香油をマリアがイエスの足に塗り始めたのを見て、つい驚いて口走ってしまったのでしょう。また、ヨハネは後にこのことに気が付いたのでしょう。6節「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」と記しています。7節8節「イエスは言われた。『そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。』」マリアはイエスの死が、近づいていることに気が付いたわけではありません。この香油は、弟ラザロを死から生き返させていただいたお礼と考えられます。彼女が持っているもので、一番高価な物はこの香油だったのです。彼女は自分の一番高価な物をささげることによって、自分の感謝の気持ちをイエスに表したのです。イエスはそのマリアの気持ちを受け取り、これから、十字架の死を受ける自分にとって、この香油は最高のプレゼントとなり、十字架の死の葬りの為の準備として受け取ったのです。イエスは私たちの救いのために、一番大切ないのちを犠牲にしてくださいました。私たちはその尊い犠牲に対して、何をささげることができるでしょうか。
2、エルサレム入場(ヨハネの福音書12章12節~16節)
12節13節「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。『ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られた方に。イスラエルの王に。』」明らかに、群衆はイエスを旧約聖書の時代から待ち望んだメシヤ(救い主)として、興奮して特別な歓迎で迎えました。14節「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。」とあります。イエスはなぜ、勇壮な馬ではなく、小さくて弱々しいろばの子に乗ってエルサレムに入られたのでしょうか。「次のように書かれているとおりである。」15節「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」群衆はイエスがローマの軍隊を追い出して、ユダヤの国を再興するメシアとして大喜びでイエスを迎えました。しかし、イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬためにエルサレムに来られたのです。それゆえに、イエス自身はご自分のことをメシアという言葉を使わないで「人の子」という言葉を使いました。実際、イエスはこのような出迎えに戸惑ったのではないでしょうか。そこで、イエスはご自分の思いを群衆に示すために、勇壮な馬ではなく、弱々しい小さな、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたのです。また、神は、そのことを、約520年前の預言者ゼカリヤに示され、ゼカリヤはゼカリヤ書9章9節にそのことを記したのです。16節「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起した。」と記されています。弟子たちもなぜ、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入られたのか分かりませんでした。しかし、イエスが十字架に付けられ殺され、死より復活した後、弟子たちは、ゼカリヤが預言したのがイエスのことであったことに気が付いたということです。
この後、群衆はイエスの言葉につまずき、また、イエスが自分たちの求めていた救い主ではないことに気付くと、イエスから去って行きました。また、イエスが捕らえられ、ローマ総督ピラトの裁判にかけられた時、群衆はイエスを十字架に付けろと叫んだのです。もし、イエスが群衆の期待に応えて、ローマの軍隊を追い出したとしたら、私たちの罪の問題はどうなっていたでしょうか。確かに、イエスは王と褒めたたえられたでしょう。悪魔は荒野で空腹のイエスをそのように誘惑しました。しかし、イエスは父(神)の御心が、十字架で自分のいのちを犠牲にする事であることを、ゲッセマネの園での祈りで確信しました。イエスには、イスラエルの王と崇められる道と十字架で蔑まれる道の二つがありました。イエスはその二つの道のうち、私たちの罪の問題を解決するために、あえて蔑まれる十字架の道を選ばれたのです。ここに、神の愛とイエスの愛が示されているのです。
「献身」とは、牧師、宣教師になることだけではありません。神がご自分のひとり子を犠牲にされました。イエス・キリストはご自分のいのちを十字架で犠牲にされました。「献身」とは、その神の愛に対して、私たちも自分の大切なものをささげることです。「ささげる」とは、神を第一にするということです。仕事よりも神を大切にすること。財産よりも神をたいせつにすることです。お金持ちの青年の話しがありました。彼は永遠のいのちを求めてイエスの所に来ました。イエスは彼が、神ではなく財産に信頼を置いていることを見抜き、彼に、財産を貧しい人に施して私について来なさいと言われました。それを聞いて彼はイエスのもとから去って行ったとあります。また、イエスは神と富に仕えることは出来ないとも言われました。また、「わたし(イエス)よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とも言われました。お金を大切にすること、父と母を大切にすることは大事なことです。しかし、それが、神以上に大切な物になった時、それは偶像礼拝になってしまいます。アブラハムが100歳、サラが90歳でイサクが生まれました。イサクは神の約束の子で、アブラハムはイサクを大切に育てました。しかし、神はアブラハムにイサクを全焼の生贄としてささげなさいと命じました。アブラハムの心の中に、神よりもイサクを大切に思う気持ちが生まれたのかもしれません。神はそのアブラハムの気持ちを知り、神とイサクとどちらが大切かの選択を迫ったのです。アブラハムはすぐにイサクを連れて神が示す山に向かいました。もし、アブラハムの心の中に、神よりもイサクを大切に思う気持ちがあったとしたら、神にイサクの命を助けるように求めたのではないでしょうか。しかし、アブラハムはすぐに出かけました。そこに彼の信仰が表されています。アブラハムは神のことばに従う信仰が出来ていたのです。神も彼の信仰を見て、満足し、アブラハムがイサクを殺すのを止めました。また、神はイサクの代わりに雄羊を備えておられました。神は私たちの心の中を見られます。私たちは何を第一として歩んでいるでしょうか。神でしょうか、目に見える財産、仕事、家族でしょうか。今日、自分の心の中を探り、自分自身に問いかけたいと思います。