ヨハネの福音書9章1節~7節
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書にも、イエスが盲人の目を開く奇跡が記されています。マタイもマルコもルカもこの奇跡がメシア(救い主)のしるしであり、イエスが神と同等の権威が与えられていることを示しています。しかし、今日、学ぶヨハネの福音書は少し違いがあります。ヨハネはイエスがなした奇跡よりも、その後の、目が開かれた人とパリサイ人たちとの論争に目を向けています。そして、パリサイ人たちはイエスを罪人と決めつけ、イエスを神から遣わされた者と認めませんでした。しかし、この目を開かれた人は、この出来事を通して、イエスを救い主と信じました。ヨハネはこの出来事を通して、どのようにイエスを救い主と信じるかを教えているのです。
- 生まれつき目の見えない人に目を留めたイエス。(ヨハネの福音書9章1節~7節)
1節「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」
とあります。聖書には目の見えない人が度々登場します。彼らは仕事をすることが出来ず、道に座って物乞いをして生活をするしか生きる道はありませんでした。イエスはそのような貧しい盲人に目を留められたのです。2節「弟子たちはイエスに尋ねた。『先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』」当時のユダヤ人たちは、大きな病(盲目、中風、長血)は罪を犯した者が、又は両親が罪を犯し、神から罰をあたえられたと考えられていました。それゆえ、弟子たちはイエスに彼の罪について問いかけたのです。3節「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのではなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」神のわざが現わされるとはどういうことでしょうか。6節7節「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、『行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」とあります。ここで不思議に思うのは、なぜ、イエスは唾で泥を作り、彼の目に塗り、シロアムの池に行けと言われたのでしょうか。イエスの力なら、ことばで命じるだけで、目を開くことが出来たでしょう。マタイの福音書では、イエスが盲人の目にさわって目を開きました。また、マルコ、ルカでは、盲人に命じて目を開いています。ヨハネの福音書で、イエスはなぜ、唾で泥を作って彼の目に塗られたのでしょうか。その泥に特別な癒しの働きがあったのでしょうか。また、イエスはシロアムの池に行けと言われましたが、シロアムの池に特別な癒しの力があったのでしょうか。そうは思えません。もし、彼がイエスのことばを信じなかったら、シロアムの池に行く事はなかったでしょう。盲人の彼が、シロアムの池に行く事は簡単な事ではなかったと思います。彼はイエスのことばを信じて、シロアムの池まで歩いたのです。イエスのことばを信じた、その彼の信仰によって彼の眼は開かれたのです。
- 目の開かれた者とパリサイ人(8節~34節)
8節「近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。』」とあります。前に彼を知っている者たちが、目の開かれた彼を見て驚き、彼のことが町中に広まりました。10節11節「そこで、彼らは言った。『では、おまえの目はどのようにして開いたのか。』彼は答えた。『イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。』」13節「人々は、前に目の見えなかった人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。」とあります。イエスが彼の目を開いたのは安息日でした。パリサイ人たちは彼の眼を開いたのが安息日であっため、イエスが安息日を守っていないという事で、神から来た者ではないとイエスを否定しました。他の人々は、罪人が目の見えない人の目を開くはずがないと、イエスを神から来た者と認めました。彼らは彼の両親を呼び出し、彼について尋ねました。しかし、彼の両親はパリサイ人を恐れ、本人に聞いてくださいと言いました。彼はもう一度、パリサイ人たちに呼び出され、イエスについてはっきりと述べました。30節~33節「その人は彼らに答えた。『これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことはありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。』」実際に目を開かれた人の証言は強く、パリサイ人たちはたじろいだことでしょう。パリサイ人たちは彼を外に追い出したとあります。
- 目の開かれた人とイエス(35節~41節)
35節「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』」イエスはご自分のことを「メシア」という言葉を使わないで「人の子」という言葉を使いました。それは、ユダヤ人たちが「メシア」が来られ、ローマ政府を追い出し、ユダヤの国を再興すると信じていたからです。36節「その人は答えた。『主よ。私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。』」37節「イエスは彼に言われた。『あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。』38節「彼は、『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した。」
彼は、イエスを救い主と信じたのです。
パリサイ人たちはイエスが安息日を守っていないので、罪人だと断定しました。それゆえ、彼らはイエスがどんな奇跡をしたとしても救い主とは信じませんでした。彼らはイエスを偏見の目で見て、罪人と断定して信じようとしなかったのです。私たちもイエスに対して偏見を持ちます。私は、この偏見ゆえに、イエスが処女マリヤから生まれたことを信じることが出来ませんでした。また、死よりの復活も信じませんでした。私は、この世の常識でイエスを見ていたので、イエスの処女降誕と死からの復活を信じることが出来なかったのです。しかし、ある時、イエスに対する見方が変わりました。聖書のことばに従って、イエスが神の子であると信じることが出来たのです。イエスが神の子ならば、処女降誕も復活も可能な事です。勿論、それが科学的に証明できるとか、理解できたということではありません。聖書全体のことばを神のことばと信じた時、すべてを受け入れたという事です。私たちは神の姿を見ることは出来ません。それゆえ、神は、私たちに神ご自身を明らかにするために、聖書のことばを与えてくださいました。確かに、聖書は人間が書いたものです。しかし、その背後に神の御手が働いているのです。それゆえ、私たちは、信仰の目で聖書を見る時、そこに神の性質、神の御業を見るのです。また、私は自分の罪を認めた時、イエスの十字架の他に救いは無いと信じました。そこから信仰が始まり、確信へと変えられたのです。大切な事は、偏見を捨てて、聖書のことばに目を留めることです。そこから、神の存在、処女降誕、復活などの神の奇跡を素直に受け入れることが出来るのです。