神に祈る人々

「神に祈る人々」創世記4章25節26節

祈りとは神様が私たち人間に与えてくださった特権であり恵みです。創世記の1章27節に神様は人間をご自身に似せてお創りになられたとあります。似せてとは形が似ているという意味ではなく、神に近い存在、神と意思の疎通が出来る存在としてお創りになられたという意味です。創世記の3章で罪を犯したアダムとエバは神様を恐れ身を隠しました。その時、神様が「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかける場面があります。この場面を通して、いかに神様と人間が親しい関係、近い関係であったことがわかります。しかし、この親しい関係を壊したのはアダムとエバでした。

エデンの園を追い出された後、アダムとエバは、カインとアベルという子を産みました。しかし、カインはアベルに嫉妬してアベルを殺してしまいました。殺人者となったカインは神様から離れ、エデンの東、ノデの地に住みつき、自分の町を作り始めました。その町は快楽と暴力の町となり、神を必要としない人間の欲望が満ちた町となってしまったのです。アダムとエバは、カインとアベルという二人の息子を失ってしまいました。その悲しむ二人に神様はもう一人の子をお与えになられました。二人はその子にセツという名をつけました。そのセツの子どもたちが主の御名によって祈る人々となったのです。そして、地上に二種類の人種が誕生しました。一つはカインの子孫、彼らは神を必要としない人々で、自分たちの世界を築き上げました。もう一つの種族は、神に祈る種族です。ところが、創世記の6章に入って、二つの種族が混じり合ってしまいました。6章にある、「神の子ら」はセツの子孫。「人の娘たち」はカインの子孫を指しています。セツの子孫がカインの子孫と結婚することによって、神様から離れ祈らなくなったという意味です。その結果、地上はどうなってしまったか、地上に悪が増大し、神様は人を創造したことを悔やみ、地上を洪水で滅ぼすことを決心されたのです。

誰でも神様に祈ったことのない人はいないとおもいます。それは、神様が私たち人間を神ご自身に似せて創造された証拠です。しかし、問題は誰に(どの神々に)祈るかということです。私は子供の頃、神様に祈ったことはありましたが、その神様がどんな神様かわからずに祈っていました。また、初詣には毎年、近くの神社にお参りに行き、成績が上がるようにとか、彼女ができますようにと祈りました。その神社がどんな神様を待っているか知らずに祈っていたわけですから、成績が上がったり彼女が出来るということはありませんでした。電話のことを考えてみましょう。適当にダイヤルを押して、電話をかけて、何かをお願いしたとします。しかし、だれがそんなお願いに耳を傾けるでしょうか。しかし、電話の相手と親しい関係ならどうでしょうか。相手に事情を説明してお願いしたら、たいていのことは聞いてくれるのではないでしょうか。私たちの祈りが聞かれないのは、私たちの祈りの対象である神様をよく知らないからです。では、次に、神様に聞かれる祈りと、聞かれない祈りについて考えましょう。どのような祈りが神様に聞かれ、どのような祈りが神様に聞かれないのでしょうか。

1、自分の願いが叶えられない祈り。(ヤコブの手紙4章3節)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」何でも思い通りに出来る力を人間が得たら、それこそ、自分を神のように振る舞い、自分をも破滅に追いやるのではないでしょうか。また、子供が願うものを何でも与える親はいるでしょうか。それこそ、子供に必要なものは与えますが、子供に害をなすもの、危険になるものを渡すはずがありません。そう考えるなら、いくら熱心に祈っても悪い動機で求める物は決して得ることはできないということです。

2、自分の願いが叶えられる祈り。(列王記第一3章5節~10節)

ダビデ王の子ソロモンは長男ではありませんでした。王になる順番で言えば下の方で、本来なら王に成れる順位ではありませんでした。ところが、兄たちか憎しみあい、殺しあうことによって、ソロモンに順番が回ってきたのです。また、ソロモンは、ダビデとバテシェバの子で、二人は姦淫の罪で、子供を失いました。ダビデは神様の前に自分の罪を告白し、罪の赦しを求めました。そして、再び生まれた子がソロモンです。ダビデは自分の罪が赦されたことを喜び、だれよりもソロモンを愛したと言われています。また、ソロモンが王になることは神様の御心でもあったのです。

ソロモンが王に就任した時、神様は夢の中でソロモンに、5節「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。その時ソロモンは自分のために、財産や軍隊、名声を求めないで、イスラエルの民を正しく治めるために知恵を求めました。神様はソロモンの祈りに答え、知恵の心と判断する心を与えられたとあります。それだけではなく、冨と誉も与えられ偉大な王として世界中に知られるようになったのです。

そのように、叶えられる祈りとは、神様の御心に叶う祈りをするということです。そのために、私たちは、聖書を読み、学び、御心を求める必要があります。また、神様に近く、神様と親しい関係を保つことが必要とされるのです。イエス様が十字架に付けられ殺される前に、イエス様はゲッセマネの園で祈りました。マタイの福音書26章39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」ここで、イエス様が言われた「杯」とは十字架で殺されることを意味しています。イエス様の願いは、十字架の死を避けることでしたが、しかし、自分の願いを優先するのではなく、神様のみこころを優先してくださいと祈ったのです。祈りとは自分の願いのために神様を動かすことではありません。私たちの願いを神様のみこころに合わせることです。神様は、私たち人間に特別に祈る特権を与えてくださいました。しかし、私たちはこの特権を正しく用いているでしょうか。カインの子孫たちは神様を必要としませんでした。また、セツの子孫たちは、神様の御名によって祈る種族となりましたが、カインの子孫と交わり、この特権を失ってしまいました。私たちクリスチャンはイエス様によってもう一度、この特権を回復していただいた者です。私たちはイエス様のように、神様を父と呼ぶことが許されたものです。遠くにいる神様、私たちと関係の無い神様に祈るのではなく、私たちを愛し、私たちの人生と共に歩んで下さる神様に親しく祈ることができる者とされたのです。