父なる神の愛とイエス・キリストの十字架の苦しみ

「父なる神の愛とイエス・キリストの十字架の苦しみ」マタイの福音書27章45節46節

今日は、父の日です。お父さんに感謝しプレゼントをあげる日ですが、自分は幾つまで父にプレゼントをしたのか記憶が定かではありません。小学生の頃、財布やベルトを父にプレゼントしたのは覚えています。多分、中学2年か3年の時から父の日にプレゼントをしなくなったように思います。その時から父に対して反抗的な態度を取り、ほとんど、父との会話が無くなっていました。あの時、父が、何であんなにうるさく自分を注意するのか。自分を信用していない。自分は父に愛されていないと思っていました。あの時代、父だけではなく、社会や大人全てに不信感を持っていました。そして、早く大人になって家を出て自立したいと考えていました。親から独立して、誰にも干渉されずに自由に生きることを願っていました。それから時間がたち、結婚し子供を得ました。そして、子供を育てる中で、初めて父の気持ちがわかるようになりました。父があんなにうるさく言うのは、自分を愛していないからではなく、自分を心配しているからだと、はじめてわかったのです。子供の頃は、視野が狭く何が危険かわかりませんでした。しかし、父は社会経験上、何が危険かを広い視野で見つめて色々と注意していたのです。そのことが子供の頃はわかりませんでした。子供を愛さない親はいません。親にとって子供は宝物で自分の命よりも大切な存在なのです。

先程、お読みしました聖書の箇所マタイの福音書27章45節46節は、イエス様が十字架に付けられ、苦しみの中で叫ばれたことばです。イエス様が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた理由は二種類の解釈がされています。

1、詩篇22篇に同じ言葉があります。この詩篇22篇は決して神を呪った詩篇ではありません。作者が苦しみの中でも最後に神様に信頼し神様の御名を褒め称える詩になっています。イエス様は十字架の苦しみの中で、最後まで自分は神様を褒め称える、そのことを人々に伝えたくて、詩篇22篇のことばを叫ぼうとして途中で息絶えたという解釈。

2、イエス様は十字架の苦しみを神の子としてではなく、人間として苦しみを負わなければならなかった。人の罪の身代わりとなるために。そのために、父なる神様はこの時、イエス様から離れて、イエス様一人を十字架の上に置かれた。父なる神様はいつもイエス様と共におられました。また、イエス様は弟子たちに度々、自分は律法学者に捕らえられ十字架に付けられ殺されるが三日目に復活ことを弟子たちに教えていました。イエス様はどんな苦しみの中にいても父なる神様が共にいてくださると信じていたのです。しかし、一番苦しい時、神様の助けが必要な時に、イエス様は一人にされたのです。神様を信じるイエス様には信じがたいことでした。しかし、人の罪を背負うためにはこの苦しみをイエス様一人で担わなければならなかったとする解釈です。どちらが正しい解釈かはわかりませんが、イエス様が受けた十字架の苦しみは私たちの想像を超えた苦しみであることは間違いありません。

父の愛というものは中々こどもには伝わらないものです。ルカの福音書15章の11節に、あの有名な放蕩息子のたとえ話があります。ここに二人の息子がいます。弟息子の方は何が不満かわかりませんが、将来自分がもらうはずの財産を先に父に要求し、そのお金を貰うと遠くの国に行ってしまいました。しかし、彼はその国でせっかく父からもらったお金を湯水のように使い、全財産を失ってしまいました。彼は食べるものもなく、豚の世話をして暮らしていました。また、彼は豚の餌でお腹を満たしたいほどお腹がすいてしまいました。ここで彼は父親のもとで幸せに暮らしていたことを思い出し、父の家に帰る決心をしたのです。ところが、弟息子が家に近づく前に、父が彼を見つけて彼を抱きしめ、親子の関係を取り戻すというお話しです。また、それだけではなく、後半兄息子が登場します。兄息子は弟が財産を失って帰って来たにも関わらず、弟を何にも罰せずに家に受け入れた父を非難しました。兄は、家にいて父に仕えていましたが、彼も父の愛に気づいていませんでした。父はいなくなった弟が無事に帰って来たのだから、一緒に祝おうと兄息子を説得しますが、兄息子は家にも入ろうとしませんでした。この二人の息子のうちどちらが父の愛に気付いたでしょうか。答えは、弟息子です。ここでイエス様は兄息子を律法学者、弟息子を貧しい人々、罪人に例えました。結局、神様の愛を受けたのは、貧しい人々、罪人と呼ばれる人々で、神様の戒めを真面目に守ろうとする律法学者たちは最後まで神様の愛に気づくことがなかったのです。結局、私たちが神様の愛に気づくためには、自分の罪に気づかなければ、神様の愛を知ることはできないのです。

ローマカトリックから独立してプロテスタント教会が生まれた時、プロテスタント教会は、ローマカトリック教会の中にある、偶像を取り除こうとしました(マリヤ像など)。その議論の中で、ある人々は十字架も取り除くべきだと主張しました。十字架を神のように人々が仰ぐためです。しかし、多くの人の意見は十字架を残すことでした。それは、十字架が神様の愛を現しているからです。聖書は偶像礼拝を厳しく戒めています。神以外のものを拝んだり、神の姿のものを作ることも戒められています。しかし、十字架は神のように手をあわせて拝む対象ではりません。あくまでも、神様の愛を目に見える形に現したものです。父なる神は私たちを愛しておられます。また、子なるイエス様も私たちを愛しておられます。十字架は、どんな罪人でも愛し赦して下さる神様の愛を、私たちにおしえて下さる大切な神様の愛の形なのです。