人の罪を裁くパリサイ人と人の罪を赦すイエスキリスト

「人の罪を裁くパリサイ人と人の罪を赦すイエスキリスト」ヨハネの福音書8章1節~11節

聖書を読んでいて、記憶に残る場面とあまり記憶に残らない場面があります。先程お読みしましたヨハネの福音書8章の場面は、初めて私が聖書を読んだ時に強い衝撃を受けた場面です。

新約聖書の時代、イエス様の働きはユダヤ教の中の特別な働き(教え)と考えられていました。しかし、次第にユダヤ教の教えとの違いが明らかになるにつれ、イエス様はユダヤ教の指導者たち、パリサイ人、律法学者、祭司、長老たちと対立を深めて行きました。そして、人々がイエス様の教えに耳を傾けるようになり、多くの人々がイエス様の近くに集まるのを見たユダヤ教の指導者たちは自分たちの教えを守るためにイエス・キリストを殺さなければならないと意見を一致させたのです。

イエス様が宮で群衆に教えられている時に、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた一人の女性を連れてきて、イエス様の前に引き出し、イエス様に言いました。4節5節「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」この場面は、律法学者パリサイ人によって計画された巧妙なわなでした。当時、ユダヤの国もローマ政府に支配されていました。それゆえ、ユダヤ人には公に人を死刑に定める権威が与えられていませんでした。ここで、イエス様が彼女に姦淫の罪で死刑の判決を下すならば、イエス様がローマ政府の法律を破ることになり、律法学者パリサイ人はイエス様をローマ政府に反逆者として引き渡すつもりでした。また、イエス様が彼女の姦淫の罪を赦すならば、イエス様は、ユダヤ教の教え律法の教えに反したとして、ユダヤ教の裁判に訴えるつもりだったのです。どちらに答えても、イエス様を罪に定める巧妙なわなでした。

それに対してイエス様は、身をかがめて、指で地面に字を書いておられたとあります。イエス様が何を書いておられたのかわかりませんが、このイエス様の態度は、このようなことに自分は関わりたくないという態度ではないでしょうか。イエス様はこれが律法学者パリサイ人のわなであることは気づいておられました。また、そのためにこの女性が捕らえられ人々の前で辱められていることに悲しみを覚えられたのではないでしょうか。出来れば、律法学者パリサイ人たちが自分たちが行なっていることの愚かさに気づいて、このままここを立ち去って欲しいという気持ちではなかったでしょうか。また、これ以上、彼女を悲しませたくないという思いがあったものとも思われます。

しかし、彼らが問い続けることをやめなかったのでイエス様は群衆に言われました。7節「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石をなげなさい。」イエス様はこのことばをパリサイ人律法学者たちに言われたわけではりません。イエス様の周りにいる全ての人に言われたのです。それは、律法学者パリサイ人だけではなく、姦淫の現場で捕らえられた女性を取り囲んでいる全ての人が、彼女は姦淫の罪で石を投げられ殺されるべきだと思っていたからです。また、イエス様の言葉はこの聖書の箇所を読む私たちにも向けられたことばなのです。何故、私がこの箇所を読んで強い衝撃を受けたかというと、それまで、聖書を読んでも自分の罪について深く考えることがなかったからです。私はこの時、イエス様に「あなたは彼女に石を投げることが出来る人間なのか。」と問いかけられたように思いました。私の答えはNOでした。自分の人生を振り返ってみて、自分は罪を犯さない人生を歩んで来ませんでした。それは、群衆も同じでした。9節を読むと「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」とあります。群衆も姦淫の現場で捕らえられた女性を見た時、姦淫の罪で死刑だと思いました。しかし、イエス様のことばによって自分も同じ罪人であることを教えられたのです。

では、この女性の立場に立って考えてみましょう。彼女は姦淫の現場で捕らえられたのです。彼女はこの時始めて姦淫の罪を犯したわけではないでしょう。常習的に罪を犯していたものと思えます。パリサイ人律法学者たちは、イエス様をわなにかけるために彼女を見張っていたのかみしれません。彼女は、突然、寝室に踏み込まれ、捕らえられて、イエス様の前に引き出され、人々の冷たい目にさらされたのです。彼女はこの場を逃げたいと思ったでしょう。または、既に死を覚悟したかもしれません。しかし、イエス様のことばによって次々と人がいなくなりイエス様と二人だけになりました。彼女は何が起こったのか理解できなかったかもしれません。戸惑う彼女にイエス様は言われました。11節「わたしもなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」この後、彼女はどのような生活を送ったでしょうか。二度と姦淫の罪を犯すことはなかったでしょう。

実は、彼女を取り囲んだ人々の中で、ひとりだけ彼女を罪に定めることが出来る人がいました。それはイエス様です。しかし、イエス様は彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われました。その言葉は、この後の十字架の死を意味したことばでした。律法は人を罪に定めるためにあります。しかし、イエス様は人をその罪から救い出すために人として生まれ、十字架の上で私たちの罪を赦すために死んでくださったのです。私たちは、自分の罪には気が付かず、すぐに人を罪に定めます。テレビや新聞で人を殺したり、不正行為を行った者を悪者扱いします。しかし、それは自分を律法学者パリサイ人の立場に立って見ているからです。神様の目から見れば私たちは、姦淫の現場で捕らえられた女性と同じ罪人です。イエス様は彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われたように私たちにも語りかけ、実際に十字架で苦しみを負い、死んでくださったのです。聖書はこのイエス様のことばを通して私たちに語りかけています。あなたは自分の罪を認めますか。自分の罪を認めるならば、あなたはその罪をどうしたいですか。イエス様は聖書の別の箇所でこのように言われました。マタイの福音書11章28節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」罪の問題を解決して下さるお方は十字架で死なれたイエス様だけです。イエス様だけが人の罪の身代わりとして死なれた真の神だからです。