父の約束、聖霊

「父の約束、聖霊」使徒の働き1章3節~8節

今日は、ペンテコステの日です。使徒の働き2章に五旬節の日について記されていますが、ユダヤ人にとってもこの日はユダヤ教三大祭り、収穫を祝う特別なお祭り(七週の祭り)の日でした。それゆえ、この日には、世界中から敬虔なユダヤ教徒がエルサレムに集まり、エルサレムの町は巡礼者で溢れていました。五旬節とは、過越しの祭りから数えて50日目(七週目)に祝われる祭りの意味です。この日に、イエス様が弟子たちに約束された父からの約束、聖霊が弟子たちに与えられ、弟子たちが変えられ、外に出て行ってイエス・キリストの復活を人々に証したのです。そして、弟子たちの証を聞いて新たに三千人の人々が弟子に加わりました。それが教会の始まりと言われ、教会では、この日を教会の誕生日として特別な記念日と定めたのです。

聖書は、聖霊について沢山のことを教えていません。それゆえ、聖霊のことを誤解したり、間違って理解したため異端の教え(グループ)を生み出しました。聖霊について理解するためには、「三位一体」ということばを理解しなければなりません。聖書の中に「三位一体」という言葉はでてきません。これは、聖霊の本質を知る上で欠かすことのできない言葉です。「三位一体」とは、父なる神と子なるキリスト、聖霊なる神は一つであるという教えです。なぜ、このことばが大事かというと、旧約聖書において神様は一人(唯一)と教えています。それをそのまま、新約聖書に引き継ぐなら、イエス・キリストを神ではない存在に引き下げなければなりません。しかし、新約聖書はイエス様を神と認めています。もし、私たちが神が唯一であることを信じるならば、私たちは次の二つの立場のうち、どちらかを選ばなければなりません。(1)唯一の神は創造主なる神であるから、イエス・キリストは神ではない。(2)イエス・キリストを神とするなら、旧約聖書を否定して、新約聖書のみを神の言葉と信じる。しかし、イエス様は旧約聖書の教えを否定されませんでした。そこで、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神を信じるならば、神の特別な性質として、神は三つで一つの神、三位一体という教えを信じる以外に結論は見い出せません。そこで、キリスト教会では、神様の特別な性質として、「三位一体」を信じ、継承してきたのです。

では、約2000年前の出来事、ペンテコステと現在の私たちとどのような関係があるのでしょうか。使徒の働き1章8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。私たちが聖霊を受けることによって力を受けます。では、私たちが受ける力とはどのような力でしょうか。

(1)イエス・キリストの復活の証人としての力を受けます。

弟子たちが、聖霊を受ける前、弟子たちは周りの人々を恐れ、隠れてお祈りをするだけでした。しかし、弟子たちが聖霊を受けると、彼らは外に出て行ってイエス・キリストの復活の話をし始めたのです。何が彼らを変えたのでしょうか。それは、聖霊の力のおかげです。イエス様が言われたように弟子たちは聖霊の力を受け、イエスの復活の証人となったのです。

(2)助け主、聖霊。

ヨハネの福音書14章16節「わたしは父にお願いします。そうすれば父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」イエス様は弟子たちに聖霊のことを助け主として紹介しました。助け主の別のことばは、カウンセラーとも訳される言葉です。この時、弟子たちはイエス様が自分たちから離れていくことを聞いて、不安な気持ちでいっぱいでした。その彼らを安心させるために、イエス様は自分の代わりに助け主(カウンセラー)を与えると約束してくださったのです。また、その聖霊(カウンセラー)はいつまでも、信じる者と共におられると約束してくださったのです。

聖霊のことをただの神の力(パワー)と信じる異端のグループがあります。しかし、先ほどのイエス様のことば、「助け主」という言葉からは、ただの力だけではなく、人格を感じさせます。神の性質が「三位一体」ということは、聖霊にも人格があるということです。また、その神が私たちと共におられるということは、「イエス様が共におられる。」と「神様が共におられる。」「聖霊様が共におられる。」という言葉は同じ意味を持つという事です。旧約聖書の時代、特別に神様に選ばれた人、アブラハムやダビデと共に神様はおられました。しかし、イエス様が生まれた新約聖書の時代は違います。イエス様はわたしを信じるものには、全ての人に聖霊を与えると約束してくださいました。それゆえ、すでに私たちの心の中に聖霊様は住んでおられます。しかし、それなのにどうして私たちの生活はアブラハムやダビデとはこうも違うのでしょうか。答えは一つです。私たちの人生を聖霊様に100%委ねていないからです。私たちは神様に自由意志を与えられています。自由意志とは私たちに選択する力がるということです。神様は私たちをロボットのように意思のない者として創造されませんでした。私たちは嫌いなことは避けて、好きなことを選びたいという心があります。助け主聖霊は私たちに強制はしません。どちらを選ぶべきかは教えても、選ぶのは私たちです。車にはハンドルが一つしかありません。ハンドルが二つ付いた車は運転ができません。私たちの人生を聖霊様に委ねるとは、人生のハンドルを聖霊様に差し出すことです。このことは、自分の弱さを認め、自分の限界を知らなければできないことです。私たちは明日のこともわからない者です。なのに、神様の助けを求めないで自分の力に頼り、自分の判断が正しいと思います。聖霊様は私たちと共に歩みたいと願っていますが、私たちが主導権を聖霊様に任せない限り、私たちの人生は変わりません。自分の力の限界を知り、自分の弱さを認める者だけが聖霊と共に人生を歩むことができるのです。ヨハネの福音書15章4節5節「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」