インマヌエル

「インマヌエル」マタイの福音書1章18節~25節

先週は、マリヤを通して「神様の選び」について学びました。私たちは偶然にこの世に生まれた者ではなく、神の愛と計画によって生まれた者。神様は私たちの人生に目的を持って生み出してくださったことを学びました。

今日は、「インマヌエル」という事について学びます。23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)この救い主誕生の預言は、BC700年代の預言者イザヤが神様から頂いた預言のことばです。ユダヤ人にとって神様とは偉大なお方であって、人間が決して近づくことができない存在でした。イエス・キリストが十字架に付けられて殺された理由は、神を冒涜した罪です。イエス様が神と自分を同じだと表現したことが神を冒涜した罪に問われたのです。なぜなら、律法学者や祭司たちにとって、偉大な神が人となるなど考えられないことだったからです。律法学者、祭司たちは、自分たちは神に仕え、だれよりも神様について知っているというプライドを持っていました。彼らの信じる神は偉大な神で、その神が、汚れた人間になる、または、人間と共に生活するなど考えられなかったのです。それゆえ、律法学者、祭司たちは神が送られた唯一の救い主を殺してしまったのです。

日本人は、お守りが好きです。お守りが神様の代わりに自分を守ってくれると信じているからです。日本人の殆どが車に交通安全のお守りを付けています。交通安全のお守りをつけていれば絶対に交通事故に合わないと信じているわけではありません。事故から神様が自分を守って欲しいと願ってお守りを付けている人が殆どでしょう。そこで、お守りに意味がないと分かって、車からお守りを取り除こうと思っても、取り除けにくいのがお守りです。それこそ、お守りを取り除いて、事故にあった場合、やっぱりお守りを外したから事故にあったと後悔するのが人間です。

人間は神様に守ってほしいと願っています。それゆえ、世界中に神々が存在しています。では、どの神様が私たちを守ってくださるのでしょうか。イスラエルの国の二番目の王様になったダビデは、元は、羊飼いの家系に生まれた者でした。神様はこの、少年ダビデをイスラエルの国の二番目の王と選ばれたのです。旧約聖書の詩篇23篇は、ダビデが神様と自分の関係をわかりやすく羊飼いと羊にたとえて表現したものです。ここで、ダビデは4節「たとい、死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とあります。神様がともにおられるという事は、苦しみや悲しみ試練がないという事ではありません。ダビデは、イスラエルの二番目の王に選ばれたがゆえに、一番目の王サウルから命を狙われ、長い間、逃亡生活に耐えなければなりませんでした。ここから私たちが学ぶことは、神様がともにおられるということは、決して、苦しみや悲しみがないとか、試練が全くない人生ではないという事です。大切なことは、苦しみの時でも、悲しみの時でも、試練の中でも、神様がともにおられると言うことです。

クリスチャンが書いた有名な詩に「あしあと」という作品があります。この作品の中で、作者は、夢の中で、砂の上に二つのあしあとがあるのに気が付きました。一つは自分のあしあと、もうひとつは、主(イエス様)のあしあと。しかし、あるところには、一つのあしあとしかありません。そして、それは、自分の人生で苦しかった時であるのに気が付きました。そこで彼女はそのことを主(イエス様)に尋ねました。主(イエス様)の答えは、決して、あなたから離れて、一人にしたのではなく、わたしがあなたを背負って歩いていたから、あしあとが一つしかないのだよと言う答えでした。私たちは、悲しみのとき、苦しみのとき、神様を見失いやすい者です。しかし、神様の約束は、永遠に私たちとともにいると言う約束です。神様は約束を破ったり、忘れたりするお方ではありません。ただ、私たちの方が、神様を見失いやすい者だという事です。雨の日、私たちは太陽を見ることができません。しかし、太陽が無くなったわけではありません。雲がさえぎっているだけです。雨雲の上にはしっかりと太陽は照り輝いています。旧約聖書を見ると、人間は何度も神様を裏切っています。しかし、神様はそんな人間を赦し、何度も人間を助けてくださいました。

神様は、ユダヤ人を罪より救い出すために、救い主イエス様を、ユダヤ人として誕生させました。しかし、ユダヤ人たちは神様の恵みを拒否しました。自分たちには、神様の教え律法(旧約聖書)があるからと、彼らはイエス様による救いを拒否し、律法を守ることによって救われる道を選んだのです。それゆえ、救いは、ユダヤ人以外の者に向けられました。「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」という神様の恵みを、彼らは信じることができなかったのです。イエス様が死より復活して、天に昇って行かれるとき、イエス様は弟子たちに約束してこのように言われました。マタイの福音書28章20節「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがとともにいいます。」キリスト教には、大きな二つの恵みがあります。(1)イエス様の十字架の死によって、私たちの罪が赦され天の御国で永遠に生活することができる。(2)イエス様を救い主と信じることによって、神が私たちの心の中に共に住んで下さる。預言者イザヤが預言した「インマヌエル」という約束は、イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活し、天に昇って行かれることによって成就(完成)されたのです。マタイの福音書11章28節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。神ご自身が私たちと共に歩むために(生きるために)人となって下さいました。それが、預言者イザヤが見たインマヌエル(救い主)の姿なのです。