ろばの子に乗ってエルサレムに入られた王イエス

「ろばの子に乗ってエルサレムに入られた王イエス」ルカの福音書19章28節~40節

いよいよイエス様の最後のエルサレム訪問です。イエス様自身、ご自分の最後の時が近づいたことを感じておられました。エルサレムに住む人々は、イエス様がラザロを死人からよみがえらせた話を聞いて、いよいよ待ち望んでいた救い主のエルサレム登場に興奮していました。イエス様はご自分がエルサレムに入る前に、弟子たちにろばの子を連れてくるように命じられました。イエス様がろばに乗ってエルサレムに入られたのには二つの理由が考えられます。

(1)旧約聖書ゼカリヤ書の預言

旧約聖書ザカリヤ書9章9節「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリヤは紀元前520年代に預言者ハガイと共に活躍した預言者です。二人は、南ユダ王国が捕囚から許された後、神殿を再建するのに働いた預言者です。ゼカリヤ書9章9節のことばは,救い主がろばの子に乗ってエルサレムに来られることを預言したものです。

(2)武力で国を再建する王ではないことを証明するため。

当時のユダヤ人が期待した救い主(王)は、ローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国の独立を宣言する救い主(王)でした。イエス様のうわさは、どんどん膨れ上がり、旧約聖書の出エジプト記に登場するモーセを連想させたことでしょう。モーセはエジプトの国に10の災害を与えイスラエルの民、男性だけで60万人を救出した偉大な指導者です。しかし、イエス様がエルサレムに来られたのはユダヤの国を独立させるためではありません。そのことを群衆に理解させるためにあえて、イエス様は馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたのです。

そんなイエス様を迎え入れたのは、熱狂的にイエス様を歓迎するエルサレムの住民たちでした。36節~38節「イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。』」自分たちの上着を道に敷く行為は、王を尊敬の心で迎える心を表したものです。ユダヤ人たちは、ろばの子に乗られたイエス様をユダヤ人の王として迎え入れたのです。この光景を目のあたりにしたパリサイ人たちがイエス様に警告を与えました。39節「先生。お弟子たちをしかってください。」彼らはこのままでは、エルサレムの町がローマの兵隊によって滅ぼされることを恐れたのです。しかし、イエス様は彼らに言われました。40節「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

イエス様の力からすれば、エルサレムの住民が願っていたように、ローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国の独立を宣言することは簡単なことでした。しかし、神様の計画はユダヤ人が神様に願うこととは大きな違いがありました。神様は、人々に蔑まれ、苦しみを受けて十字架で殺される救い主をエルサレムに送られたからです。イエス様もそのことで苦しみ、父なる神に、汗が血のように流れるほどゲッセマネの園で祈られました。しかし、その祈りの答えは、人々の罪の身代わりとして十字架の上で死ぬことでした。イエス様は神様のご計画を確信して、十字架の道を歩まれたのです。

ピリピ人への手紙の中で、パウロはイエス様の十字架の死についてこのように伝えています。2章6節~8節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」神が人としての性質をもって生まれることさえ、神にとって卑しいことでした。しかし、イエス様はそれだけではなく、十字架の上で罪人として死ぬことさえ従われたのです。世界中で崇められる神々の中で、どの神がそのような屈辱に耐える神が存在するでしたでしょうか。イエス・キリストだけが、その屈辱を自ら引き受けて下さいました。また、その尊い行為によってイエス様は神様の偉大な愛を表してくださったのです。ユダヤ人たちは、この偉大な神様の愛に気づきませんでした。また、世界中の人々も、イエス様の十字架の死を神様の愛の表れと気づかなかったのです。それは、神様の偉大な愛は、人間の常識や力では理解できないからです。ここに福音を伝える難しさがあります。人々は、自分の罪の大きさに気づかず、神様が人の罪の身代わりとして十字架の上で死なれることを必要としなかったのです。しかし、神様はその大きな責任を教会にお与えになられました。私たちは、知識や常識で人々に神様の愛を伝えるものではありません。私たちは、互いに愛しあい、助け合うことによって、神様の愛を伝えるものです。説得力のあることばによらず、ただ、神様によって変えられた姿によって、これからをイエス・キリストが真の神であることを証しして行きたいと思います。