イエスの足に香油を塗るマリヤ

「イエスの足に香油を塗るマリヤ」ヨハネの福音書12章1節~11節

イエス様がエルサレムに入場する前に、もう一つ大切な出来事を学びます。場所は、マルタとマリヤの家でした。マルタとマリヤはイエス様と弟子たちのために晩餐の用意をしていました。また、その席に死からよみがえらせていただいたラザロも同席していました。この晩餐は死からよみがえったラザロのためのお祝いと思われます。その席で、大変ショッキングな出来事が起こったのです。3節「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」イスラエルでは、食事の時、床に足を投げ出して座り、食事をしていました。そのイエス様の足に、マリヤが香油を注ぎ、髪の毛で拭い始めたのです。当時、香油は、体臭を消すための化粧品として使われていました。また、死体のにおいを消すために埋葬のためにも使われていました。また、香油の中でも純粋なナルドの香油はかなりの高級品でした。イスカリオテ・ユダはその香油が三百デナリ(三百万円)で売れるものをと、マリヤを批判しています。この場面で、群衆は二つのことで驚いています。一つは、マリヤがいきなりイエス様の足に香油を塗り髪でぬぐい始めたことです。当時の習慣からすれば、若い女性がいきなり群衆の目の前で男性の足に香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐうなど考えられない行為です。二つ目は、その香油の値段が高価だったことです。イスカリオテ・ユダはその金額が三百デナリ(約三百万円)と計算しましたが、群衆はそのにおいをかいで、すぐに高級品であることがわかったでしょう。それをおしげもなく(三百グラム)をイエス様の足に塗り始めたのです。イスカリオテ・ユダだけではなく、それを見ていた人すべてがもったいないと感じたのです。マリヤにとって一度死んだラザロを生き返してもらった喜びは何ものにも代えがたいものでした。彼女は自分ができる最大限の感謝の気持をイエス様に表したのです。群衆は香油三百万円をいっぺんに使い果たすもったいない行為に見えましたが、マリヤにとってラザロの命は三百万円以上の価値あるいのちです。ラザロのいのちに比べたら、香油三百万グラム(三百万円)は無駄な行為ではなかったのです。

マリヤの行為を批判したイスカリオテ・ユダについて、聖書はこのように説明しています。6節「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預っていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」とあります。イスカリオテ・ユダは、イエス様と弟子たちが生活するための生活費を管理していました。それだけ、イエス様に信頼される者でしたが、彼はイエス様を騙してお金を盗んでいたのです。それだけではなく、最後は銀貨30枚でイエス様をユダヤ教の祭司長や長老たちに引き渡す約束までしました。お金の計算にさといイスカリオテ・ユダにとってマリヤの行為は、無駄な行為としかうつりませんでした。まだ、貧しい人に施したほうが意味があると彼は考えたのです。

イエス様はマリヤの行為をどのように受け取られたでしょうか。7節8節「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしはいつもいっしょにいるわけではないからです。」イエス様はマリヤの行為を葬りのための準備として受け取られました。イエス様は、すでにこの時、エルサレムに行くならば捕らえられて罪人として殺されることを覚悟しておられました。マリヤがどの程度、イエス様のことを理解していたかはわかりませんが、イエス様にとって一番嬉しことは、自分が殺される前に、香油を塗られて埋葬の準備をすることでした。イエス様は自分が罪人として殺された後、普通にお墓に納められことを考えていなかったのではないでしょうか。しかし、思いかけずマリヤが自分の体に香油を塗ってくれた。このことゆえにイエス様はマリヤのこの行為を喜ばれたのです。

マリヤは、一度は死んだラザロを生き返してもらったその感謝の気持ちを、自分ができる最大の行為で表しました。それは、金額からすれば三百万円という高額な香油をイエス様のために使うことでした。しかし、ひとりの人の命に比べれば三百万円はけして高価な金額ではありません。それ以上に、イエス様は私たちの救いのためにご自身のいのちを十字架の上で犠牲としてささげて下さたのです。私たちはそのイエス様のささげられたいのちゆえに何をささげることができるでしょうか。献身とは、決して牧師、宣教師になることだけではありません。以前、私たちは自分のために生きてきました。献身とは、今まで自分のためだけに使ってきた命を神様のために使うことです。その現れの一つとして、牧師、宣教師になる道があるという事です。牧師、宣教師だけではなく、神様のために生きる道は他にもたくさんあります。洗礼を受けるとは、一度死んでよみがえり新しい人生を生きることを意味しています。自分のための人生から、神様に喜ばれる人生に転換すること、これが、聖書が私たちに生まれる、新しく生きるという事です。マリヤは、自分にできる最大のささげものをイエス様にささげました。イエス様は私たちを救うためにご自分のいのちを十字架の上でささげられました。私たちはそのイエス様に何をささげることができるでしょうか。