神の祝福を受け継ぐ者

「神の祝福を受け継ぐ者」創世記32章24節~32節

世の中には様々な宗教があります。その多くがご利益宗教と言われるものです。ご利益宗教とは、信じる目的がお金儲けや病のいやしなど、神様から何かを得ることを目的とした宗教です。キリスト教も神様に祝福や病のいやしを祈ります。では、ご利益宗教とキリスト教と何が違うのでしょうか。キリスト教の中心は、神との和解です。神様は、天地全てを創造される時、人間をご自身に似せて創造されたとあります。それは、神様と人間の親しい関係を表したものです。しかし、人間は罪を犯し、神様との親しい関係(特権)を失ってしまいました。その失った特権を私たちがもう一度、得るために、イエス様は人として生まれ十字架の上で死んでくださったのです。神様は、イエス様を通してもう一度、人間が神様との親しい関係を取り戻す道を備えて下さいました。それが、イエス様を神の子と信じて救われる信仰による救いの道なのです。

今日は、ヤコブの生涯から三つの出来事を取り上げ、神様の与えてくださる祝福について考えます。

1.創世記25章27節~34節「エサウとヤコブ」

エサウとヤコブはアブラハムの孫にあたります。エサウとヤコブは双子として生まれましたが、ふたりは、全く違った人格に成長しました。兄エサウは体格もよく狩りを好む野の人なりました。それとは反対にヤコブは、ひ弱で天幕に住む者となりました。父イサクは兄エサウを愛し、彼を後継者の族長にと考えていました。母リベカは弟ヤコブを愛しました。それは、リベカが二人を生む時、兄が弟に仕えるという神様のことばを聞いたからでした。母リベカは乱暴な兄よりやさしいヤコブを愛したのです。また、ヤコブはずる賢い面を持っていました。力では兄に勝てないので、何とかして知恵を使って、兄から長子の権利を奪い取ろうと考えていたのです。その好機がやって来ました。兄エサウが狩りからお腹を好かせて帰って来たのです。その時、ヤコブは料理を作っていました。兄エサウはヤコブにその料理を食べさせてくれと頼みました。ヤコブは、お腹の空いた兄に、長子の権利と交換に食べ物をあげようと提案したのです。兄エサウは空腹だったので、簡単に長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。聖書は、エサウは長子の権利を軽蔑したとあります。

また、父イサクは目が弱くなり、兄エサウに家長としての特別な祈りをすることに決めました。それを知ったリベカは慌てました。後継者は弟のヤコブだと神様のことばを聞いていたからです。そこで、ヤコブを呼び、兄エサウになりすまして父イサクを騙して神の祝福の祈りを兄から奪い取るように命じたのです。ヤコブは、母のことばに従い、父イサクを騙して兄の祝福の祈りを奪い取ってしまいました。怒ったのは兄エサウです。彼はいつか弟ヤコブを殺すことを決心しました。そして、それを知ったリベカは、ヤコブを助けるために自分の兄ラバンのもとに逃げ、しばらく身を隠すようにるように知恵を与えたのです。

2.創世記28章10節~22節「荒野での神との出会い」

兄エサウの怒りから逃れるために、母リベから言われて、ヤコブは一人叔父ラバンの家に向かいました。その晩、ヤコブは始めて荒野で野宿をしました。彼は一人心細く恐怖の時間を耐えなければなりませんでした。そこで彼は、天までとどく梯子の夢を見たのです。またその梯子を神の使いたちがのぼりおりしているではありませんか。そこで、ヤコブは神の声を聞き、ヤコブがどこにいても神様が助けてくださるという約束を頂いたのです。ヤコブはこれまで祖父のアブラハムからまた、母のリベカから神様のお話を聞いていたでしょう。ヤコブはこの時、始めて神様の声を聞き、神様の約束をいただくものになったのです。

3.創世記32章22節~32節「神と格闘するヤコブ」

叔父ラバンの家での生活は楽なものではありませんでした。ヤコブはラバンの二人の娘と結婚するために14年間ただで働かされました。また、ヤコブは自分の財産を得るためにさらに6年間働きました。20年後ヤコブは父の家に帰るようにと神様の声を聞きました。そこで、ヤコブは叔父ラバンに邪魔されないように、自分の家族と家畜を伴い密かにラバンの家を出たのです。しかし、故郷に近づくに連れ、兄エサウへの恐れが大きくなって来ました。そこで兄エサウの怒りを鎮めるために、兄へのプレゼントをたくさん準備しました。それでも、不安は無くなりません。ある日、彼は家族を川の反対側に渡し、一人の時間を持ちました。そこで、神とヤコブとの格闘が始まりました。その格闘の中で神はヤコブのもものつがいを打ってはずしたとあります。それでもヤコブは神様から離れませんでした。そこでヤコブは神様から「イスラエル(神と戦って勝った)」という名を頂いたのです。ヤコブは神様の祝福をいただきましたが、もものつがいがはずされたため、びっこをひいていたとあります。ある牧師は、ヤコブはこの時から杖が必要となり、その杖こそが神ご自身であると話されました。ここから、ヤコブ(押しのける者)ではなく、イスラエルとしての新しい人生が始まったのです。

ヤコブが神様に求めたものは何だったでしょう。それは、兄エサウと同じ目に見える財産だったかもしれません。しかし、彼が最後に求めたものは神様の助け、神様ご自身でした。この時にヤコブは、兄エサウよりも決して財産は多くありませんでした。しかし、彼は神様からの約束のことばを聞きました。創世記28章15節「見よ。わたしはあなたとともにありあなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」目に見える財産には限界があります。しかし、神様には限界はありません。この世でも共におられ、天の御国でも永遠に共にいてくださるお方です。神の祝福、それは、神様との親しい関係を私たちが回復することです。そのために、イエス様は人として生まれ、十字架の上で死んでくださいました。ヤコブは、アブラハム、イサクの後継者として、この真の祝福を受け継ぐ者となったのです。マタイの福音書1章で、イエス様が生まれる時、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言がありました。インマヌエルとは、神が共におられるという意味です。神が共におられる、これこそが、現在私たちに約束された祝福のことばです。この神の祝福はイエス様を信じるすべとの者に与えられる永遠の祝福となったのです。