神によって罪赦された者

「神によって罪赦された者」ルカの福音書7章1節~4節

ルカの福音書17章3節4節「気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。これを聞いて、一度や二度までならまだしも、一日に七度も人の罪を赦すことができるだろうかと考えます。同じ質問をペテロがイエス様に質問した聖書の箇所があります。マタイの福音書18章21節「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』」ペテロはイエス様に七度まででしょうかと言い表しています。それに対してイエス様は22節「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われました。七度を七十倍するという事は490回という事になります。いちいち400回も数えませんからイエス様が言われた意味は、何回でも赦しなさいという意味です。なぜ、私たちは人の罪を何度でも赦さなければならないのでしょうか。イエス様はその理由を次の例え話で説明しています。マタイの福音書18章23節から35節。王の所に一万タラントの借りのあるしもべが連れてこられました。一万タラントを現在の日本円にして表すと約6千億円に相当します。これは例え話ですから、返すことができない大きな借金という意味で一万タラントとイエス様は言われたのでしょう。このしもべはとうてい返すことができないので、王様の前にひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。」と必死で頼みました。王は、その姿を見て、かわいそうに思い、その借金を免除してやりました。このしもべはどんなに喜んだことでしょう。ところが、このしもべが、自分がお金を貸していた男に出会いました。その金額百デナリとあります。日本のお金に換算すれば約百万円です。このしもべは王様に六千億円の負債を赦してもらったのです。それなのに、このしもべは、この男の首を閉めて借金を返せと詰め寄りました。すると男は、ひれ伏してもう少し待ってくれと頼みました。しかし、このしもべは、彼が借金を返すまで牢に投げ入れたとあります。この話を聞いた王様はもう一度、このしもべを呼び出しました。32節~34節「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか』こうして、主人は怒って借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」とあります。この例え話の結論は35節「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようにされるのです。」私たちは、神様にどれだけ多くの罪を赦していただいたでしょうか。それは、このしもべのように、金額では表せないほどです。

ヨハネの福音書8章で、姦淫の現場で捕らえられた女性の話があります。ユダヤ教において姦淫の罪は大きく、その刑罰は死刑に値する大きな罪でした。しかも、皆で石を投げつけて殺すという石投げの刑で殺されることに決められていました。パリサイ人、律法学者たちは、イエス様をわなにかけるために、この女性をイエス様の前に連れてきたのです。イエス様は群衆に対して、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。すると年長者たちから始めて、ひとりひとり出ていき、イエスがひとり残されたとあります。群衆の多くはこの女よりも自分は正しいと思っていました。しかし、イエス様が言われたように、自分に罪がないとは誰も思えなかったのです。それゆえ、群衆はイエス様の周りから去って、彼女ひとりがイエス様の前に残されたのです。私たちは、神様の前にどれだけ多くの罪を赦されたのでしょうか。それは、金額では表せないほどです。しかもそのすべてが、イエス様の十字架の死によって赦されたのです。私たちは、私たちの罪を赦してくださったイエス様の十字架の姿を思うとき、私たちは、私たちに罪を犯した人を赦すことができるのです。もし、できないなら、このしもべのように、百デナリ貸した者を赦さない姿と同じです。多くの罪が赦されたのに、人の罪を赦さないなら、神様も私たちの罪をも赦されないという事なのです。

主の祈りの中で私たちは毎週どのように告白しているでしょうか。マタイの福音書6章12節「私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とあります。14節「もし、人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦して下さいます。」15節「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とはっきりと書かれています。イエス様は弟子たちに、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいと言われました。私たちは、なぜ、隣人を愛さなければならないのでしょうか。それは、私たちが、すでにイエス様に愛されているからです。それと同じように、私たちの罪がすでにイエス様によって赦されているから、私たちは人の罪を赦すことができるのです。