からし種ほどの信仰

「からし種ほどの信仰」ルカの福音書17章5節~19節

先週は人の罪を赦すことの大切さについて学びました。ルカの福音書17章4節「かりに、あなたがたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたがたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とイエス様は弟子たちに言われました。それを聞いて、5節「使徒たちは主に言った『私たちの信仰を増してください。』」弟子たちはイエス様のことばを聞いて、とうてい今の信仰では、イエス様の言われるようには人を赦すことはできない。そう思い、弟子たちはイエス様に、自分たちの信仰を増してくださいと願いでたのです。それに対してイエス様は彼らに言われました。6節、しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』といえばいいつけどおりになるのです。」弟子たちは、自分たちの信仰を増してくださいと願いました。しかし、イエス様は信仰とは、努力して増し加えることではなく、どのような信仰を持つか、信仰の質(内容)が問題だと言われたのです。「からし種」とは、本当に小さな種で、ごまよりも小さな種です。しかし、それが成長すると二メートルから三メートルの木に成長するそうです。そんな小さな信仰でも、桑の木に根こそぎ海の中に植われと命令すればその通りになるとイエス様は言われたのです。信仰とは、私たちが努力して素晴らしい信仰の人になることではありません。ユダヤ教の律法学者パリサイ人たちは、律法(神様の戒め)を守ることによって正しい人になることを目的としました。それゆえ、見た目には立派で、ユダヤの人々に尊敬されていましたが、イエス様は彼らを偽善者と呼びました。なぜなら、彼らは人に見せるために良い行いをしていたからです。そして、彼らが、イエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。イエス様が言われたからし種ほどの信仰とは、イエス様のことばを信じる信仰。イエス様の約束を信じる信仰です。そのような信仰は、人間が努力して得る信仰ではありません。神様から与えられる信仰です。それゆえ、イエス様が言われた信仰とは、自分が努力して成長させる信仰ではなく、神様に求める信仰だという事です。そのことが7節から10節で、イエス様が弟子たちにお話になられた内容です。このお話を見るとしもべがかわいそうに見えます。しもべが一生懸命、主人に仕えても、主人に全く褒められていないからです。それどころか、10節「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい、とまで言われています。これは、神様と私たちの関係についてのお話です。私たちが神様のために何をしたとしても、全ては神様から頂いたものです。私たちの命も、健康も仕事も、財産も神様からの預かりものです。神様から与えられたもので何をしても、褒められるのは神様だけです。このしもべと同じようになすべきことをしたに過ぎないのです。何も自分を誇ることはありません。これが本当の信仰です。自分の力で行うなら、自分を誇るものになります。それは、律法学者パリサイ人たちの姿なのです。実は、10年前の私の信仰はそのような信仰でした。40歳で新しい会堂を立てて自分は優秀な牧師だ、立派で人々に尊敬される牧師になれると心の中に、そのような思いがありました。その後で、教会に大きな問題が起こり自分の愚かさに気付かされました。自分が何かをしたのではなく、これは神様の御業であり、何一つ自分が努力して出来上がったものではない事を教えられたのです。まさに、「なすべきことをしただけです。」と告白する者に変えられたのです。私たちの信仰の目的は、私たちが努力して良い人間に成長することではありません。私たちの信仰は、神様の御業を求め、主の栄光を現すことです。それこそが、イエス様が言われた「からし種の信仰」なのです。

ルカの福音書17章11節から19節は、十人のらい病人がいやされたお話しです。旧約聖書、新約聖書を通して、らい病のお話がたくさん出てきます。それほど、イスラエルの国では、らい病患者が多く存在していたのではないかと思います。昔から、らい病は神の刑罰の現れとされ、人々から罪人として嫌われていました。それゆえ、らい病患者は町に住むことが許されず、城壁の外で暮らさなければなりませんでした。また、らい病人に触れると触った人も汚れを受けるとして、町中を歩くときは、「自分はらい病人です。自分はらい病人です。」と言いながら歩かなければならないと定められていました。その十人のらい病人がイエス様に遠くから助けを求めました。13節「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言ったとあります。イエス様は彼らに言われました。14節「行きなさい。そして、自分を祭司に見せなさい。」旧約聖書の時代からの約束で、らい病がいやされた場合、祭司に見せて、七日間様子を見ます。その後、祭司がもう一度、患部を見て、らい病が完全にいやされていることがが確認されて始めて、その人のらい病がいやされたことが正式に認められることになっていたからです。このおはなしの問題は、十人のらい病人が癒されたのに、イエス様のところに戻ってきて、イエス様に感謝したのは一人だった。しかも、彼は、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人たちから不信仰な民と、バカにされていたサマリヤ人だったという事です。サマリヤ人とユダヤ人は元は同じ国民でした。しかし、イスラエルの国はソロモン王の後、北と南に分かれてしまいました。また、北イスラエルの国はアッシリヤによって滅ぼされた時、他の民族を移住させられ、純粋なアブラハムの子孫ユダヤ人の血を失ってしまいました。それゆえ、ユダヤ人たちはサマリヤ人たちを軽蔑していたのです。先週、罪の大きさと救いの喜びは比例するというお話をしました。らい病というのは罪の現れでした。しかも、彼はユダヤ人から嫌われるサマリヤ人でした。その、サマリヤ人である自分をも神様は罪を赦して、らい病をいやしてくださった。この喜びはどんなに大きいものでしょう。その喜びがイエス様のもとに戻るという行為に現れたのです。異邦人でも神様は罪を赦してくださる。それは、異邦人のクリスチャンであるルカにとっても同じ喜びではなかったでしょうか。また、ルカの福音書は、同じ異邦人のテオピロという人の救いのために書かれた福音書です。ルカは、ここで、異邦人でも神は罪を赦してくださる、救ってくださることをテオピロに伝えたかったのかもしれません。からし種の信仰、それは、異邦人でも信じるなら罪が赦され救われる信仰です。それは、現在の私たちでも神に願うなら与えられる信仰なのです。