へブル人への手紙11章8節~19節
新約聖書において「信仰」と訳された言葉が240回以上登場します。それほど、私たちの生活において「信仰」が大切なことがわかります。色々な宗教においても「信仰」という言葉は登場します。それでは、キリスト教において「信仰」とはどのようなことをいうのでしょうか。アブラハムとサラの人生を通して「信仰」について考えます。
1、信仰による旅立ち(創世記12章)
アブラハムが神のことばに従って、親族から離れ旅立ったのが75歳でした。その時、サラは65歳でした。アブラハムが75歳、サラが65歳であるのに、二人には跡取りとなる子供がいませんでした。聖書はサラが不妊の女であったと記しています。アブラハムの時代、女性が子どもを産むことは一番大切な仕事でした。多くの子を産んだ女性は人々から尊敬され、子を産めない女性は神から呪われた者とさえ言われました。また、男性は、子孫を多く残すために、複数の女性を妻に迎えることが多くありました。特に妻が子を産めない場合、周りの人々は別の女性をめとるように勧めるのが当たり前の時代でした。そんな時代にアブラハムが75歳になっても別の女性を妻に迎えなかったのは、サラへの愛情の表れではないかと思われます。そんなアブラハムに神は「あなたを大いなる国民とする」と約束されました。この神の約束のことばは、子どものいない二人に、大いなる希望を与える言葉となったのではないでしょうか。
2、アブラハム信仰により義とされる(創世記15章)
神は創世記15章1節で「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」と言われました。ここで言われている、アブラハムの恐れとはなんだったのでしょうか。アブラハムは2節3節で、このように神に訴えています。2節
「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」3節「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」このことばから、アブラハムの恐れ、悩みは、神様が約束してくださった子どもが生まれないので、自分の財産を受け継ぐのが、自分のしもべであるエリエゼルになってしまうのかという恐れ(悩み)でした。神のことばを信じて旅立った二人でしたが、依然として子どもが生まれない。この状況に、アブラハムは不安と恐れを感じていたのです。ここに、アブラハムが私たちと同じ弱い(不信仰な)者であることがわかります。神はそんなアブラハムの信仰を強めるために、星を通して、神の約束を確かなものにしてくださいました。5節「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる。』」アブラハムはこのことばを聞いてどうしたでしょうか。6節「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」とあります。ここで、アブラハムは何を信じたのでしょうか。今のアブラハムの状況な何も変わっていません。しかし、アブラハムは、神は約束したくださったことを必ず成し遂げてくださる。約束を守るお方だと信じたのです。神は真実なお方で、神のことばはその通りになると信じる。これこそが聖書が私たちに教える信仰です。
3、ハガルを妻に迎えるアブラハム(創世記16章)
星を見て、神の約束を信じる信仰を強められたアブラハムでしたが、時間と共に、また、信仰の弱さが出て来ました。アブラハムがカナンの地を出てから10年後のことです。アブラハムは85歳、サラは75歳になっていました。サラは、自分が子を産めない年齢に達したことを覚え、自分の女奴隷のハガルをアブラハムの妻に差し出したのです。2節「ご覧ください。主は、私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラハムはサラの言うことを聞き入れたとあります。サラは、自分には子を産む力がない、しかし、何とか夫に子を残さなければならないとの強い思いで、自分の女奴隷をアブラハムに差し出したのです。また、当時の習慣として、奴隷の子も主人の所有物となりますから、サラは生まれた子を自分の子として育てようと思ったのかもしれません。しかし、身ごもったハガルは自分の主人サラを見下すようになったとあります。そこで、サラはどうしたでしょうか。彼女はハガルをいじめたとあります。そして、ハガルはサラのいじめに耐えかねて、アブラハムの家から逃げ出してしまいました。しかし、主の使いがハガルに現れ、アブラハムの家に帰るように言われたので、彼女は御使いに諭され、アブラハムのもとに帰り、身を低くしてアブラハムの子イシュマエルを産んだのです。
4、イサクの誕生(創世記17章)
17章において、アブラハムは99歳、サラは89歳になっていました。その頃、主が現れ、アブラハムに言われました。6節7節「わたしは、あなたをますます子孫にとませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」アブラハムはこのことばを聞いてどう思ったでしょうか。17節「アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。『百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても九十歳の女が子を産めるだろうか。』18節「そして、アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前で生きますように。』」信仰の父と呼ばれるアブラハムですが、この時、アブラハムは神のことばを信じることができませんでした。しかし、創世記21章において、神は、アブラハムへの約束を現実のものにされました。創世記21章1節~3節「主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。」神は、二人の信仰に関係なく、アブラハムに約束されたとおり、アブラハム百歳、サラ九十歳の二人に、男の子を与えられたのです。
5、信仰の父アブラハム
神は、不信仰なアブラハムとサラに、約束通りアブラハム百歳、サラ九十歳に子を与えられました。では、アブラハムはなぜ、信仰の父と呼ばれるようになったのでしょうか。それは、創世記22章の出来事によります。神はアブラハムに与えられた子、イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられました。アブラハムは翌朝早く、イサクを連れてモリヤの山に出かけました。アブラハムは神が告げられた場所に着くと、祭壇を築き、イサクを縛って祭壇の薪の上に載せて、刃物を取り、イサクを屠ろうとしました。その時、主の使いがアブラハムに語りました。12節「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」神はアブラハムのために雄羊を用意されていました。アブラハムはイサクの代わりに、神が準備された雄羊をささげたのです。神はなぜこのような試練を与えられたのでしょうか。12節のことばから推察すると、アブラハムは、神から与えられたひとり子イサクをことのほか大切に育てたのではないでしょうか。しかし、それが、行き過ぎて、神よりも、または、神と同じほどイサクを大切にしてしまったのではないでしょうか。神が私たちに求められる信仰は、神を第一とすることです。いくら神からの授かりものといっても、神と同じほどイサクを愛することは間違いです。そこで、神はアブラハムの間違いに気付かせるために、イサクをささげなさいと命じられたのです。アブラハムもそのことに気付いていたのではないでしょうか。それゆえ、アブラハムは、翌朝早く出かけたのです。私たちに与えられている、家族、健康、仕事、財産もすべて神から与えられているものです。それゆえ、神よりも、家族や仕事、財産を大切にすることを神はお許しになられないのです。
6、救いの約束と信仰
では、私たちがアブラハムの信仰から学ぶことは何でしょうか。アブラハムとサラの問題は子が与えられないという問題でした。そこに、神が75歳のアブラハムに現れ、「大いなる国民とする」という約束を与えられました。アブラハムは神の約束のことばを信じて旅立ちました。しかし、神の約束はすぐには成就しませんでした。アブラハムは25年間待ち続けることになりますが、その間、何度か、不信仰な思いに支配されました。しかし、神はふたりの信仰に関係なく、約束通りアブラハム百歳、サラ九十歳に男の子を誕生させたのです。このことを通してアブラハムの信仰は強められ、後にイサクを全焼のいけにえとしてささげよとの命令にも従うことができたのです。それは、アブラハムが、神には不可能なことはなく、万事を益にしてくださるという信仰を持つことができたからです。私たちも、イエス・キリストの処女降誕と死よりの復活をこの世の常識では信じことはできません。しかし、神には不可能なことはないという信仰を持つ時、神の御業、処女降誕と復活を信じる信仰を持つことができるのです。しかし、私たちもアブラハムと同じように、弱い者です。時として、神様の約束を疑うこともあります。神は、そのような私たちのために聖書を与えてくださいました。私たちは、聖書を通して、神のことばを信じ、神の時を待ち望む者とされるのです。また、神より恵みを受けることによって、神は私たちがどんな問題、苦しみ、悲しみの中にあっても万事を益に変えてくださる方であることを信じることができるのです。