ルカの福音書23章39節~47節
先週は、大祭司によるイエスの宗教裁判とローマ総督ピラトによるイエスの裁判から学びました。二つの裁判に共通することは、イエスは無実の罪で裁かれ死刑の判決を受けたということです。今日は、その続きイエス・キリストの十字架の苦しみと私たちの救いについて学びます。
- イエスの十字架の苦しみ(マタイの福音書27章45節~50節)
ローマ総督ピラトによる裁判の後、イエスは総督官邸において兵士たちから辱めを受けました。その後、イエスは十字架を担がされ、ゴルゴタに連れて来られ十字架に付けられました。マルコの福音書によると、それは朝の9時であったと記されています。45節「さて、十二時から午後三時まで闇がおおった。」46節「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。イエスはなぜ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのでしょうか。その意味について、二つの解釈があります。一つは、イエスは詩編22篇の御ことばを叫ぼうとされたという解釈です。確かに詩篇22篇の1節にイエスが叫ばれた同じ御ことばが記されています。しかし、この詩篇22篇は、神様に見捨てられたことを恨んで書かれた詩篇ではありません。神を見失っても神を求め、神に信頼しますと詠った詩篇です。イエスは神に見捨てられながらも、神に信頼しますという思いで、この詩篇22篇の御ことばを叫ばれたという解釈です。
もう一つの解釈は、イエスは文字通り、神に見捨てられたと感じられた。今まで、神はイエスと共におられました。しかし、イエスは十字架に付けられた時、神に見捨てられたと感じたのです。それは、どれほどの孤独、どれほどの苦しみだったでしょう。イエスは十字架に釘付けられるという肉体的な苦痛と、神に見捨てられたという精神的な苦痛を受けられたのです。肉体的な痛みよりも、神に見捨てられたという、精神的な苦痛のほうがどれほど大きいでしょう。神が共におられることがわかれば、どんな苦痛も耐えることが出来ます。しかし、その頼りにしていた神に見捨てられたという苦痛は耐えられないほどの苦痛と恐怖に心が支配されたことでしょう。イエスはなぜ、そこまで苦しみを負わなければならなかったのでしょうか。それは、私たち罪人の身代わりとして、人が受ける苦しみを同じように受ける必要があたからです。それゆ、イエスが叫ばれた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、イエスの心から苦しみを表した魂の叫びということがでます。どちらの解釈が正しいかわかりませんが、イエス・キリストが受けられた十字架による苦しみは、私たちの想像を超えた苦しみであったことが理解できます。
- 神殿の幕が裂けた(マタイの福音書27章51節)
マタイの福音書もマルコの福音書も、イエスが息を引き取った後、神殿の幕が真っ二つに裂けたことを記しています。マタイの福音書27章51節「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」神殿は「聖所」があり、さらにその先に「至聖所」があります。先程の裂けた「神殿の幕」とは、この「聖所」と「至聖所」を隔てた幕のことです。また、この「至聖所」には、大祭司だけが、羊の血を携えて年に一度だけ入ることが許された聖なる特別な場所です。その「聖所」と「至聖所」を隔てた幕が裂けたことは、神と人間を隔てた幕が取り去られたことを指しています。イエス・キリストが十字架でご自分の血を流し、いのちを神にささげることによって、神と人とを隔てる罪の壁が取り去られ、イエス・キリストを通して誰でも神に近づくことが出来る、救いの道が完成されたことを表す出来事だったのです。
- 十字架に付けられた犯罪人の救いとパラダイス(ルカの福音書23章39節~43節)
マタイもマルコも、十字架に付けられたイエスの右と左にも、犯罪人が十字架に付けられたことは記しています。しかし、ルカだけはその犯罪人について、もう少し詳しく記しています。ルカの福音書23章39節「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。」彼はイエスを「キリスト」救い主と信じて、イエスに救いをお願いしたわけではありません。聖書に「イエスをののしり」とありますから、「おまえがキリストなら自分とおれたちを救ってみろ」とイエスを馬鹿にして言った言葉です。40節41節「すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』」42節「そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときは、私を思い出してください。』」もう一人はイエスに救いを求めました。彼は第一に自分が罪人であることを認めました。また、彼は神を恐れていることを告白しています。さらに彼はイエスが無実で十字架に付けられ殺されようとしていることを信じています。また、彼はイエスが亡くなった後、御国で神と共に国を支配することを信じています。また、そこに自分が招かれることをイエスに願いました。その彼に対してイエスは何と答えたでしょうか。43節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」「パラダイス」のことばの意味は、塀で囲われた園を表すことばです。ここでイエスが「パラダイス」ということばを用いたのは、神による支配された場所を意味して言われたのでしょう。パラダイスは神の国(天国)とは違います。パラダイスは、イエスを神の子と信じる者が亡くなった後、イエスの再臨の時を待つ場所だと言われています。では、イエスを神の子と信じないで亡くなった者はどうなるのか、それは、永遠の暗闇の中でイエスの再臨を待つことになります。イエスの再臨の後、すべての人は神の前に立ち神より裁きを受けることになります。その時、イエスを神の子と信じる者は、先ほどのイエスの十字架の死によって罪が赦されていますから、天の御国に招かれます。しかし、罪ある者は、自分の罪によって神に裁かれ、永遠に消えない火で焼かれると聖書に記されています。永遠に消えない火で永遠に焼かれるとはどれほどの苦しみでしょう。イエスはそのような苦しみから私たちを救うために、あえて、ご自分で十字架に付き、私たちの罪の身代わりとして苦しみを負われたのです。私たちの罪とはどれほど大きなものでしょう。神の子であるイエス・キリストがあの十字架で苦しまなければならないほどの罪が、神の前に積み上げられているということです。この犯罪人は、明らかに罪を犯した犯罪人です。決して救われるために努力したり、正しい人間になろうとした人ではありません。彼がパラダイスに招かれたのは、彼が自分の罪を認め、イエス・キリストに救いを求めたからです。彼は私たちの代表です。だれでも、イエスを神の子と信じ、自分の罪を認めイエスに救いを求めるなら、天の御国に招かれるということです。これが福音であり、ルカが十字架のイエスを通して私たちに伝えようとしたことです。