マタイの福音書8章5節~13節
新約聖書に6人の百人隊長が登場します。彼らはローマ政府に雇われた役人で、町の治安を守るように遣わされた人です。また、彼らはイエスやペテロ、パウロに対して親切で敬虔な信仰を持った人々でした。今日はマタイの福音書8章に登場する百人隊長の信仰から学びます。
イエス・キリストはマタイの福音書5章から7章で山に登り「山上の説教」と呼ばれる長い説教を語られました。その内容は律法学者の教えとは違い、新しい権威のある教えでした。マタイの福音書7章の最後29節には「イエスが、彼らの律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられたからである。」とあります。また、マタイの福音書8章において、ツァラアトに冒された人をきよめる(癒す)ことによって、イエスが持つ権威が神による権威であることが証明されました。
5節において一人の百人隊長がイエスの所に来て懇願しました。6節「主よ。私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。」イエスはそれを聞いて7節「行って彼を治そう」と言われました。百人隊長が自分のしもべの病を癒すために、ユダヤ人であるイエス・キリストに懇願することは特別なことです。この百人隊長が自分のしもべを大切に思ってのことで、彼の人柄を表した出来事です。また、彼がユダヤ教を信じ、イエス・キリストが病の癒しを行っていることを聞いての行動だったのでしょう。ユダヤ人であるイエスが異邦人である百人隊長の家に出向くことも特別なことです。ユダヤ人から見れば、百人隊長といえども異邦人であり罪人(汚れた人)です。ユダヤ教では異邦人の家に入ることは禁じられていました。それなのに、イエスが彼の家に行こうと言われたので、彼は驚いた事でしょう。この百人隊長はユダヤ人の習慣を知っているがゆえに、このようにイエスに答えました。8節「しかし、百人隊長は答えた。『主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをください。そうすれば私のしもべは癒されます。』」彼はイエスの来訪を遠慮し、イエスに「おことば」を下さいと懇願しました。それは、百人隊長という彼の特殊な仕事のゆえでした。彼は続けてイエスに言いました。9節「と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に「来い」と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」彼は軍人として上官の命令には権威があり、部下は絶対にそれに従わなければならないことを知っていました。10節「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことはありません。』」このようにイエスはこの百人隊長の信仰を誉めました。これまでもイエスは多くの病を癒してきました。しかし、ユダヤの人々はイエスの権威を認めつつも、病の癒しのために、病人をイエスの所に連れて来たり、イエスを病人の所に連れて行ったりしていました。しかしこの百人隊長は、イエスのことばを頂くだけでしもべの病は癒されると信じていました。それは、彼が軍人として上官の命令を守り、また、自分も部下に対して命令を下してきた経験があったからです。それゆえ、イエスに与えられた権威を信頼し、イエスのことばを頂くだけで、しもべは癒されると信じたのです。11節12節「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは、外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」この「御国の子ら」はユダヤ人を指しています。本来、神の祝福はアブラハムの子孫であるユダヤ人に与えられるものでした。しかし、彼らは神の恵みであるイエス・キリストを十字架につけ殺すことによって、神の恵みを拒否してしまいました。そこで、神の救いの恵みが異邦人に与えられたのです。イエスがこのように言われたのは、百人隊長の信仰を褒めると共に、ユダヤ人の不信仰を批判してのことでした。13節「それからイエスは百人隊長に言われた。『行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒された。」とあります。
へブル人への手紙11章1節「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。アブラハムも妻のサラも高齢となり人間の力では子を産めない状況にありました。神の約束を疑うアブラハムに神は外に出て星を見なさいと言われました。そして創世記15章5節「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる。』」6節「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」とあります。アブラハムの置かれた状況は何も変わっていません。しかし、彼は神に不可能は無いと信じ、神のことばの通り、子が生まれ、子孫が星の数ほど増えることを信じたのです。信仰とは神の力と権威を信じ、神には不可能なことはないと信じることです。しかし、私たちは現実の世界に生きています。イエス・キリストが処女のマリヤから生まれるなど信じられないことです。また、イエス・キリストが死から三日目に復活して、弟子たちの前に姿を現し、天に昇って行かれたことも信じられません。私たちがイエス・キリストを私たちと同じ人間として考えるならば、処女降誕も復活もあり得ないことです。しかし、聖書はイエス・キリストを神の子であると証言しています。私たちに問われているのはその神のことばを信じるかどうかです。日本人が考える八百万の神には、制限や限界があります。しかし聖書は、神は天地の創造主であり全能の神であると記しています。この創造主のことばによって天地すべては創造されました。であるならば、創造主なる神だけがこの世の法則に縛られない唯一のお方です。私たちの考えや知識には限界があります。科学が万能であると言っても、そこにも限界があります。私たちは何を、また、どのことばを信じたらよいでしょうか。科学は進歩し、昔の定説は変化してきました。しかし、神のことばである聖書は時代が変わっても変わることはありません。多くの支配者が聖書の言葉を無にしようと迫害を加えました。しかし、どの支配者もキリスト教を無くすことはできませんでした。また、聖書の言葉を葬ろうとしてもできませんでした。聖書は神のことばであり、変わることはありません。そして、聖書の約束も変わることはありません。私たちは聖書のことばを神のことばと信じています。それは、私たちの知恵ではなく、神から与えられる信仰によってです。私たちは信仰によって、聖書のことばが変わることのない神のことばであると信じているのです。