病の癒しと罪のきよめ

マルコの福音書1章40節~45節・5章25節~34節

1、罪をきよめるイエス・キリスト(マルコの福音書1章40節~45節)
40節「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』」ツァラアトとは、以前は「らい病」と訳されていましたが「重い皮膚病」のことです。ここで問題なのは、彼がこの病を「治してください」と言わずに「きよめてください」とイエスに懇願したことです。なぜ、彼はイエスに「きよめてください」と懇願したのでしょうか。
イスラエルの国では、古くからツァラアトという病がありました。旧約聖書レビ記13章
14章にはツァラアトがどのような病であるのか、発病した場合どうしなければならないのか、また、治った場合どうするのかが詳しく記されています。それを考えると、昔からツァラアトに冒された人は、イスラエルの国では昔から多く存在していたのではないかと推測されます。また、旧約聖書の中には、神に罪を犯し、罰としてツァラアトに冒された人々が数人います。そのためイスラエルの民にとってツァラアトに冒された人は神に罪を犯し罰せられた人であり、したがって罪人として忌み嫌われていました。また、この病が治る(癒される)ということは、その人の罪が赦されたことを意味していました。それゆえ、ツァラアトに冒された人を癒すのは神ご自身の御業だと信じられていたのです。
マルコの福音書1章に戻って、このツァラアトに冒された人は、イエスの前にひざまずいて懇願したとあります。また、彼はイエスに40節「お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と懇願しています。この二つの事から、彼がイエス・キリストを神、または、神の権威が与えられた預言者として接していることがわかります。また、それは彼の信仰告白であると考えられます。イエスはそれを理解した上で、彼に言いました。41節「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」ツァラトは原因のわからない不治の病です。また、人々は彼らを罪人と呼び、忌み嫌いました。ツァラアトに冒された人は、町の外で生活をしなければならず、人々の前で自分がツァラアトに冒されていると叫びながら歩かなければなりませんでした。また、その人が触る物はすべて汚れると信じられていました。それゆえ、イエスがツァラアトに冒された人に触ったことは驚くべきことでした。42節「すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」とあります。この事によって、イエス・キリストが神と等しい方、神と同じ権威を持つお方であることが証明されました。44節「そのとき彼にこう言われた。『だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。』」イエスは彼に「だれにも話さないように」と戒めました。それは、イエスの働きが人の病をいやすことであると誤解されないためでした。イエスの働きは人々に福音を宣べ伝えることでした。その上で、病に苦しむ人々をあわれみ、病を癒していたからです。また、イエスは、祭司に見せて律法に定められたささげ物をするようにと彼に命じています。それは、この時、イエスの権威がまだ人々に認められていなかったためです。彼がきよめられた者として社会に復帰するためには、祭司に患部を見せて、きよいと宣言されなければなりませんでした。そして、旧約聖書の教えに従って神にささげ物をするように命じたのは、イエス・キリストが旧約聖書の教えを重んじていたことを表しています。
2、長血の女性を癒すイエス・キリスト(マルコの福音書5章25節~34節)
この出来事は、イエスが会堂司ヤイロの娘を助けに行かれる途中に起こった出来事です。25節「そこに十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。」とあります。また、
レビ記15章25節には「女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出るがあるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりのある期間と同じように汚れる。」とあります。また、彼女の寝床や座った物も汚れるとされ、これらに触れる者も汚れると記されています。この病は、血が止まらないだけではなく、汚れた者として社会から疎外された病でもあります。そういう意味では先程のツァラアトと同じ扱いを受けていたということです。それが十二年も続いていたということですから、彼女は肉体だけではなく、普段の社会生活においても苦しみを受けてきたと想像できます。また、26節「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」とあります。彼女がいかに悲惨な毎日を十二年もの間過ごしてきたかわかります。27節「彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。」20節「『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思っていたからである。」とあります。彼女は汚れた者であるため、人前に出て、イエスに助けを求めることが出来ませんでした。そこで、彼女は人込みに紛れ、人知れずイエスの衣に触れようとしたのです。ここで彼女が「癒される」ではなく「救われる」と思ったのは、この病が癒されることによって、汚れた者として社会から疎外されていた環境から救われると考えたものと考えられます。29節「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた。」とあります。イエスも自分から力が出たことを感じて、だれが自分の衣に触ったのかを探されました。彼女は驚いた事でしょう。黙ってイエスの前から去ろうとしていたのに、逃げることが出来なくなりました。33節「彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。」とあります。34節「イエスは彼女に言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」ここでイエスが言われた彼女の信仰とはどのようなものでしょうか。彼女は十二年もの間、汚れた者として社会から疎外されて生きてきました。医者によっても苦しめられ、財産さえ失ってしまいました。彼女にとってイエスは最後の望みだったのではないでしょうか。しかし、彼女は人前に出られない身です。もし、人込みで汚れた女であることが知れたら大変なことになってしまいます。彼女はそのような恐れを持ちつつイエスの衣に触れたのです。生半可な気持ちでイエスの衣に触れたわけではありません。混雑の中、イエスに触れた人は他にも多くいたはずです。しかし、彼らの中には一人もイエスから力を引き出した人はいませんでした。イエスから力を引き出したのはこの長血を患った女性だけでした。先程の、ツァラアトに冒された人も、社会から汚れた者として疎外された人でした。彼らはこの病のゆえに苦しんできたのです。イエスもそのことを知っておられたからこそ、彼らを憐れみ汚れから救い出してくださったのです。
私たちは彼らのように立場は違っても、自分の罪の重さに苦しんだことがあったでしょうか。救いの喜びは、その人の罪の自覚と比例します。多くの罪を赦された人は、どれほどイエス・キリストに感謝するでしょうか。しかし、自分の罪がわからない人には、イエスの十字架の死の意味すらわかりません。神の子であるイエスは、私たちを罪の中から救うために、神の姿を捨てて人として誕生し、一度も罪を犯さなかったのに、私たちの罪の身代わりとなり十字架で死んでくださいました。神は私たちを愛し、どれほど大きな犠牲を支払ってくださったでしょうか。神の義性の大きさがわかればわかるほど、私たちは神の愛の大きさに驚きと喜びを見出すのです。