コリント人への手紙第一15章12節~19節
イエスが死より三日目に復活されたというのは、魂が肉体から離れ天に昇って行かれたわけではありません。イエスは肉体を持って復活されました。しかし、その肉体とはこの地上での肉体ではなく、天上の体を持った復活です。天上の体とは、見た目は地上の体と変わりませんが、壁をすり抜けたり、一度にたくさんの人たちの前に体を表すことのできる体です。そして、その体は、私たちイエスを神の子と信じる者に与えられる復活の体でもあります。
コリント人への手紙は、パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。特に15章はイエスの復活と私たちの復活の関係について述べた箇所です。ここでパウロは、一番大事なことは、イエス・キリストが聖書に従って死なれたこと、そして、聖書に従って三日目によみがえられたことだと教えています。そして、そのイエスは、十二弟子たちだけではなく、五百人以上の人々に現れたことを証しています。
今日ここで取り上げたいことは、そのように弟子たちが命を懸けて、延べ伝えたイエスの復活を信じない人々がコリント教会に誕生し始めたということです。それゆえ、パウロは、危機感を持ってイエス・キリストの復活と私たちの復活の関係を明らかにされたのです。パウロはコリントの教会員に対してこのように言っています。12節「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと述べ伝えられているのに、どうして、あなた方の中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。」13節「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえられなかったでしょう。」14節「そして、キリストがよみがえられなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」ここで言っている「死者の復活」とは、信者である私たちの復活のことを指しています。それゆえ、コリント教会の問題は、イエスの復活と私たちの復活と切り離して考えていることでした。つまり、イエスの復活は彼が神の子ゆえにありうるかもしれないが、私たちがイエス・キリストと同じ体で復活することを信じることができないということなのです。ここでパウロが強調していることは、神が私たちを肉体を持ってよみがえらせることができないならば、キリストもよみがえらせることはできなかったでしょうということなのです。イエスは私たちの「初穂」として復活されたとあります。つまり、イエス・キリストの復活と私たちの復活は繋がっているということなのです。さらにパウロはこのように言っています。14節~18「そして、キリストがよみがえられなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神について偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って神に逆らう証言をしたことになるからです。もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえられなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえられなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。」パウロのことばをまとめると、死者の復活がないのであれば、キリストも復活することができず、私たちの信仰は実質のない無駄な信仰となり、私たちの罪の問題も解決されず、依然として罪の中におり、先に死んでいった者たちは死んで滅んでいっただけになってしまうということです。
「死生観」ということばがあります。生と死についてどのように考えるかということです。たとえば、私たちが偶然に生まれ、死ですべてが終わる人生だとしたら、私たちの人生は何と味気ない人生でしょうか。キリスト教では、いのちは神によって与えられ、死んだ後、私たちは世の終わりの時の最後の審判を待つことになります。死んだ者はすべて神の前に立たされ、罪あるものは、その罪のゆえに神の裁きを受けます。しかし、イエス・キリストのゆえに、罪赦された者は、天の御国において、神と共に永遠に暮らすことができます。多くの日本人は仏教の影響で、死んだ人間は天国(極楽)へ行けると漠然と信じているのではないでしょうか。
もう少し、具体的に聖書から、死後について説明します。ルカの福音書23章39節から、イエスが十字架に付けられた時、同じように、イエスの右と左にも十字架に付けられた人がいました。一人は「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え」と悪口を言いました。しかし、もう一人は彼をたしなめて言いました。40節41節「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そしてイエスに言いました。42節「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言いました。43節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「パラダイス」とは、天国のようなところで、最後の審判が始まる時まで、イエスを神の子と信じる者たちが待つところだと言われています。彼は、特別に良い人でも、良いことをした人でもありません。ただ、彼は、イエスが罪のないお方であることを信じ、イエスが行かれる御国に自分も入れてくださいと願っただけです。イエスは、彼の願いを聞き入れ、わたしとともにパラダイスにいることを約束してくださったのです。天国は、神の国のことで、神が支配する国です。神は天の御国は、罪がない者しか入れないと言われました。それゆえ、私たちが天国に入るためには、努力して正しい人間になるか、イエスによって罪が赦されるかの方法しかありません。ユダヤ人は神から与えられた戒め(律法)を完全に守ることによって、神に認められる正しい人間になることを求めました。しかし、聖書は、だれも完全に神の戒めを守ることができないと教えています。それゆえ、神の子イエス・キリストが神の姿を捨てて人として誕生してくださり、十字架の上で、ご自分のいのちを犠牲にすることによって私たちの救いの道を完成してくださいました。私たちクリスチャンは罪がない者ではなく、罪赦された者として神の前に立ち、キリストのとりなしのゆえに、天の御国に迎えられる者にされるのです。そのためには、イエスが神の子であることを信じ、私たちの罪の身代わりとして十字架で命を犠牲にされ、死より三日目に復活され、天の父のもとに昇って行かれ、今も神の右の座におられることを信じなければならなりません。聖書に記されている、イエスの処女降誕と死よりの復活は、人間の理解を超えた出来事です。それゆえ、神は、それを理解するのではなく、信じなさいと教えています。信じるとは、神の言葉、約束を信じるということです。また、神は神を求める私たちに信じる力を与えてくださいます。神の御業を信じることは人間の知恵ではなく、神の助けが必要です。神に助けを求めるとき、神は私たちに信じる力を与えてくださいます。信仰とは、神を理解することではなく、神を信頼することです。そのために、神は私たちに神の言葉である聖書を与えてくださいました。私たちは聖書を通して、神が天地の創り主であることを信じ、イエスが処女マリヤから生まれたことを信じ、イエスが死より三日目に復活され、今は、神の右の座におられることを信じているのです。イエスは死より三日目に復活され、天に昇って行かれました。私たちも、世の終わりの時、イエスと同じ栄光の姿に変えられ、天の御国に迎え入れられます。これが神の約束であり、私たちイエスを神の子と信じる者に与えられる神の恵みなのです。