誰がイエスを十字架に付けて殺したのか

イザヤ書53書1節~12節

4月17日にイースターを迎えますが、その前に、誰がイエスを十字架に付けて殺したのかについて考えましょう。聖書を読むならば、祭司長、民の長老たちがイエスを殺そうと計画していたことがわかります。しかし、彼らは、過ぎ越しの祭りの間は避けようと考えていました。過ぎ越しの祭りには、海外からも敬虔なユダヤ教徒が集まり、多くの人々でにぎわいます。もし、そのような状況でイエスを捕らえたならば、暴動が起こるかもしれないと彼らは考えたのです。それゆえ、彼らは過ぎ越しの祭りが終わった後に、イエスを捕らえ処刑しようと考えました。ところが、イエスがエルサレムの町に入っても、群衆が求めるような働き(ローマの兵隊を追い出すなど)をしないのを見て、民衆はイエスから離れていきました。それを見た、祭司長や民の長老たちは、イエスを捕らえるチャンスと考え、イエスを捕らえ、裁判にかけて死刑の判決を下し、ローマ総督ピラトに死刑にするように要求し、イエスを十字架に付けて殺してしまったのです。そういう意味では、イエスを十字架に付けて殺したのは祭司長、民の長老たちと言えます。しかし、当時、ユダヤはローマ政府に支配されており、ユダヤ人には、公に人を死刑にする権限がありませんでした。それゆえ、先ほどの祭司長、民の長老たちは、ローマ総督ピラトにイエスを死刑にするように訴え出たのです。ローマ総督ピラトは、ユダヤの治安を守る権限が委ねられていました。それゆえ、この時、イエスを死刑にすることも、無罪で釈放する権限も持っていました。実際、ピラトは、祭司長、民の長老たちがねたみによって、イエスを死刑にすること要求していることに気が付いていました。それゆえ、ピラトはイエスを釈放しようと努力もしました。いくらピラトが悪い人間でも、無実の者を死刑にすることを躊躇したのでしょう。しかし、群衆はイエスを十字架に付けて殺すように騒ぎ始めました。ピラトにとって一番困ることは、暴動を起こされることでした。ローマ総督と言え、ローマ政府から派遣された官僚ですから、治安維持ができないと、訴えられれば、地方に飛ばされるかもしれません。それゆえ、ピラトは、イエスが無実であることを知りながら、自分の立場を守るために、イエスをユダヤ人に十字架に付けて殺すために引き渡したのです。それゆえ、イエスを十字架に付けて殺すことを公に認めたのは、ローマ総督ピラトだと言えます。

悪魔は、初めからイエスを十字架に付けて殺すことを計画していました。当時、十字架に付けられて殺される者は極悪人とされ、その家族さえも呪われた者とされる、人々に恐れられた刑罰です。悪魔の計画は、イエスのいのちを奪うことだけではありませんでした。悪魔の計画は、イエスの弟子たちやイエスが今まで行ってきたすべての働きを葬ろうとしたのです。そのためには、ローマ総督の権限で、イエスを十字架に付けて殺すことによって、世界中にイエスが極悪人として殺されたことを知らせる必要がありました。ピラトがイエスを釈放しようとしたとき、群衆がイエスを十字架に付けろと叫ばせたのは、悪魔の仕業でした。悪魔は、人々を先導して、暴動を起こすような姿をピラトに見せることによって、彼を脅し、イエスを十字架に付けて殺すことを決断させたのです。そういう意味では、イエスを十字架に付けて殺すことは悪魔の計画だった言えます。

誰がイエスを十字架に付けて殺したのか。その答えは、父なる神でした。なぜ、神がイエスを十字架に付けて殺す必要があったのでしょうか。創世記の1章で神が天地すべての物を創造されたとき、罪は存在しませんでした。神は創世記の2章で、アダムをエデンの園に住まわせました。そして、一つの戒めを与えられました。創世記2章16節17節「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」次の3章に蛇が登場して女(エバ)を誘惑しました。創世記3章4節5節「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」6節「女はその実を食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」二人は、神の戒めを捨てて、蛇(悪魔)の声に従ってしまいました。しかし、二人は神のようになることも、死ぬこともありませんでした。ただ、二人は互いが裸であることがわかり、いちじくの葉で腰を覆ったとあります。そして、二人は神の足音を聞いて、恐れ、身を隠してしまいました。二人は神の戒めを破ることによって罪を犯してしまったのです。この後、神は男(アダム)には、労働の苦しみを与え、女(エバ)には産みの苦しみを与えて、エデンの園から追い出されました。また、創世記3章15節は「原始福音」と呼ばれる個所で、「わたしは敵意を、おまえと女の間に、お前の子孫と女の子孫の間に置く。彼はお前の頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ。」とあります。ここで言われている、お前の子孫とは「悪魔」のことを指し、女の子孫を「イエス・キリスト」を指しています。また、「お前は彼のかかとを打つ」とは、悪魔がイエスを十字架に付けて殺すことを表し、「彼はお前の頭を打つ」とは、イエスが死より復活して悪魔の計画を打ち砕くことを表す預言的なことばといわれています。神は、二人が罪を犯したそのすぐ後で、すでに、人の罪の問題を解決するために神のひとり子イエスを十字架に付けて殺すことを計画されたのです。

イザヤ書53章も難解な個所で、苦難のしもべの箇所と呼ばれる有名な個所です。ユダヤ人たちは、ここに登場する苦難のしもべが誰であるのか理解できませんでした。私たちは、この個所は、まさにイエス・キリストの苦しみを預言的に表した箇所だと理解しています。4節に「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」10節「しかし、彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげものとするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」とあります。イザヤはここで、このしもべが苦しめられ殺されることは、神の御心であることを証しています。

イエスが十字架に付けられ、苦しみの中で、マタイの福音書27章46節で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」と叫ばれたのは有名なことです。ここで、イエスがなぜ、このように叫ばれたのか、二つの解釈があります。一つは、イエスは詩篇22篇のことばを叫ぼうとされたという解釈です。詩篇22篇は神を呪う言葉ではなく、この作者は、苦しみの中でも私は主を信じますと告白することばです。イエスは苦しもの中で、この詩篇の言葉を叫ぼうとして息絶えたという解釈です。もう一つの解釈は、神はイエスを見捨てられたという解釈です。それは、イエスが神の子ではなく、一人の人間として、死を背負わなければなかったため、神は十字架の上で、イエスから離れ、イエスを一人にされたという考えです。この時、イエスは初めて、神の臨在を失い、一人の人間として死を負われました、その苦しみと悲しみから、イエスはこの言葉を叫ばれたという解釈です。どちらが正しいかは誰にもわかりません。ただ、イエスは一人の人間として、死の苦しみを負われたことはまちがいありません。

神はなぜ、ご自分のひとり子に、このような苦しみを与え、十字架に付けて殺されたのでしょうか。それは、私たちの罪があまりにも大きく、神の子がこれほどの苦しみを負わなければ、救われないことを表しています。そしてそれは、それほど、神が私たちを愛しておられることを示しているのです。親が、自分の子を助けるために、自分のいのちを犠牲にすることはあります。それほど、親にとって自分の子は大切な存在です。しかし、他人の子のためにはどうでしょうか、そこまでする人がいるでしょうか。しかし、神は私たちよりも大きな愛を持っておられるゆえに、罪人である私たちを見捨てることはできませんでした。それゆえ、神は私たちの罪の身代わりとして、ご自分のひとり子イエスを十字架に付けていのちを取られたのです。聖書は、そこに、神の愛が、私たちに表されていると教えています。神の愛は、お金持ちになるとか、病が癒されるとか、願いをかなえるといった、ご利益的な愛ではありません。私たちの罪の問題を解決するために、ご自分の一番大切なひとり子のいのちを犠牲にする愛です。イースターはイエス・キリストが死より復活されたことを祝うお祭りです。しかし、そのために、神がどのようなおおきな犠牲を払われたのかを知ることは、イエスの復活を祝う私たちにどうしても必要なことなのです。