ハンナの祈り

1章1節~11節

神を信じるとは、神の存在を信じると言うことではありません。へブル人への手紙11章6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」とあります。私たちは、神の存在を信じていても見えない神様に頼るよりも、自分の知恵、力に頼ってしまうことがないでしょうか。

1、不妊の女性サラの場合

アブラハムの妻サラは不妊の女性でした。当時、女性に求められる一番の責任は子どもを産み、たくさんの子孫を残すことでした。それゆえ、不妊の女性は、神に呪われた者、不幸な女性と言われ、人々から見下される存在でした。サラは歳をとり、自分に子どもを産む力がすでに失っているのを感じ始めていました。そこで、この問題を解決するために、夫のアブラハムに自分の女奴隷ハガルを彼の妻として差し出したのです。当時、奴隷の子は主人の子と扱われることがありました。それゆえ、サラはハガルが産んだ子を自分の子として育てようとしたのです。しかし、アブラハムの子を身ごもったハガルは高慢になり、主人であるサラを見下す態度を示し始めたのです。ハガルによって子を産ませ問題を解決しようとしたサラでしたが、ハガルが身ごもることによって、さらに問題を大きくしてしまいました。サラはアブラハムに訴えますが、アブラハムは何もしてくれませんでした。そこで彼女はハガルをいじめたとあります。ハガルは彼女の女主人のいじめに耐え兼ね、サラの前から逃げ出してしまいました。しかし、神はハガルの前に現れ、主人のところに帰り、身を低くなさいと言われ、彼女はサラのもとに帰ったのです。しかし、それで問題が解決したわけではありませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時にサラは男の子を産みイサクと名付けられました。イサクが乳離れした日、盛大な宴会が催されましたが、その時、サラはハガルの子イシュマエルがイサクをからかっているのを見てしまいました。サラはイサクの将来のことを心配し、アブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すように言いました。アブラハムにとってイシュマエルも自分の子です。しかし、神がサラの言うことを聞くようにと言われたので、アブラハムは仕方なく、ハガルとイシュマエルを家から追い出したのです。この出来事の発端は、サラが自分の子を得るために、女奴隷ハガルをアブラハムに妻として差し出したところにあります。サラは神に祈ってこのことを決めたのではなく、それは、彼女の知恵による行為でした。アブラハムも神に祈ってハガルを妻にしたわけではありません。二人が祈って行動していたら、この問題は起こらなかったかもしれません。しかし、このことは、二人だけの問題ではなく、私たちの人生にも起こりやすい出来事ではないでしょうか。

2、不妊の女性ハンナの場合

サムエル記第一の1章には、後にイスラエルの国の偉大な指導者となる、サムエルの誕生についての話から始まっています。サムエルの母ハンナは不妊の女性でした。夫のエルカナはハンナを愛していましたが、彼女が不妊の女性であっっため、もう一人の女性ペニンナを妻に迎え彼女によって息子と娘を得ていました。当時は一夫多妻が許される時代でした。しかも、妻が不妊の場合、跡継ぎを得るために、もう一人別の女性を妻に迎えることは普通のことでした。しかし、不妊の女性である彼女にとって、それはつらい立場であったと考えられます。しかも、ペニンナには息子と娘がおり、またそのことで、彼女につらく当てられ、その事でも苦しんでいました。唯一の救いは、夫であるエルかなはハンナを愛し優しく接してくれることでした。ただ、それを見るペニンナにはそれが苦しみとなり、さらにハンナを憎んだことでしょう。このような問題を解決する方法として、苦しみの根源であるペニンナを取り除くと言う方法もありました。夫のエルカナはハンナを愛していましたから、ハンナがエルカナにペニンナを追い出すように言えば、彼女を追い出せたかもしれません。しかし、ハンナはその方法を取りませんでした。彼女はこの問題(苦しみ)を神の前に差し出したのです。祈りとは、自分の願いを叶えることだけではありません。祈りとは、私たちを愛しておられる神に自分の苦しみを差し出し、神に自分の重荷(苦しみ)を共に担っていただくことです。神は私たちのどんな祈りも共に担ってくださいます。それが私たちの信仰です。神を信じない人にとって、神に祈るなど意味のないことに映るでしょう。しかし、神の愛を信じる私たちにとって、祈りとは、まさに、問題の解決の近道なのです。ハンナは祈りの中で、生まれた子を、主にお渡ししますと祈りました。当時、イスラエルの国では、新しい霊的なリーダーを必要とされていました。ハンナの祈りは神の御心に叶う祈りでした。その後、ハンナは身ごもり、男の子を出産し、その名を「サムエル」と名付け、約束通り、乳離れした後、祭司エリにサムエルを託したのです。神はそれだけではなく、ハンナを祝福し、サムエルの他に、三人の息子と二人の娘を産んだとあります。

私たちは、アブラハムの妻サラやハンナのように人生の中で苦しみに遭います。その時、私たちはどのように、その苦しみに対応するでしょうか。自分の知恵や力に頼り、やられたら何倍にもしてやり返すようなことはないでしょうか。憎しみを憎しみで返しても問題は解決しません。また、自分の力では解決できない問題、病や家族の問題などどうすればよいでしょうか。専門家に相談することも一つの方法かもしれませんが、私たちには私たちのことを愛し、すべてを益に変えてくださる方を知っています。神に祈り、神に頼ることは、ある人たちにとっては、愚かなことかもしれませんが、神が今も生きて働かれていることを知る私たちには、神は力強い方であり希望です。苦しみには色々な意味があります。すぐに祈って叶えられることもあれば、何十年と祈り続けなければならないこともあります。ただ、何十年と祈り続けることによって私たちの信仰が深まることもあります。ある婦人は夫の救いのために40年以上祈り続けました。その女性はこの祈りのゆえに私の信仰は深められましたと告白しています。すぐに叶えられることも喜びですが、何十年と祈って叶えられた祈りは、どれほどの喜びがあるでしょうか。毎日祈り続けることは難しいことではありますが、祈り続けた人にしか与えられない恵みがあります。以前、山登りの話をしました。なぜ人は高い山を目指して登るのでしょうか。それは、登った人しか見られない景色があるからです。それと同じように、祈り続けた人しかわからな恵みがあります。神は私たちの祈りに無関心な方ではありません。神は私たちに追いきれない試練は与えられないし、神は私たちの祈りに答えてくださるお方です。ただ、その答えが私たちの願ったものではないかもしれないし、私たちの願った時ではないかもしれません。しかし、神は万事を益に変えてくださると聖書にあります。私たちの最善ではなく、神の最善の時があります。私たちは神の最善を信じこれからも真の神に祈って行きましょう。