アブラハムの信仰による義

ローマ人への手紙4章1節~5節

先週は「福音」という言葉の意味とその内容のすばらしさについて学びました。今日は、同じパウロが書いた手紙「ローマ人への手紙」から「信仰による義」について学びます。ガラテヤ教会はパウロによって開拓された教会でしたが、パウロが教会を去った後、ユダヤ人クリスチャンがガラテヤの教会に来て、パウロが伝えたのと別の福音を教え始めました。それにより、彼らの信仰が、神の恵みによる救いから、律法を守る行いによる救いへと変えられようとしたのです。(ユダヤ人クリスチャンたちは、イエスを救い主と信じる信仰に、割礼とユダヤ教の律法も守らないと救われないと教え始めた。)パウロはそれを聞いて怒りに燃え、ガラテヤの教会の人々を正しい福音理解に導くために、この手紙(ガラテヤ人への手紙)を書き送ったのです。

ローマの教会はパウロが開拓した教会ではありません。それどころか、この時、パウロはまだローマの教会に行ったこともありませんでした。しかし、パウロは当時、世界の中心であったローマに行き、ローマの人々に福音を伝えたいと願っていました。ローマの教会がどのようにして誕生したのか正確にはわかりません。ある説では、使徒の働き2章で起こったペンテコステの日にエルサレムにいた異邦人かユダヤ人が、ペテロの説教を聞いてクリスチャンとなり、ローマに帰った後、その信仰を広めたのではないかと言われています。その後、ローマの教会が増えていきましたが、ふさわしい指導者がいませんでした。そこで、パウロは何とか自分がローマに行くまでに、彼らを正しい信仰に導くために、この手紙を書き送ったのです。

パウロがこの手紙で強調していることは、「救いは律法を守ることによって得られるのではなく、イエスを神の子と信じる信仰によって救われる。」ということです。このことは、ガラテヤの教会でも同じように伝えました。キリスト教の中心、土台となる教えが、信仰による救いです。ユダヤ人は神様から与えられた約束として割礼と律法を守るように努力していました。彼らは、キリスト者になってからも、それを手放すことができませんでした。それゆえ、新しく生まれた異邦人クリスチャンにもそれを強制しようとしたのです。パウロ自身、律法に苦しめられた人でした。そのパウロが復活したイエスと出会って、彼は初めて、救いは律法を守ることではなく、イエスを神の子と信じる信仰によって救われることを体験したのです。それゆえ、パウロはなんとしてもユダヤ教の習慣を取り除き、信仰によってのみ救われることを全世界に伝えたいと願ったのです。

パウロは、このローマ人への手紙4章の中で、信仰の父として尊敬されるアブラハムを取り上げ、彼がどのようにして神に受け入れられたかを伝えています。2節「もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。」3節「聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。この御ことばは、創世記15章6節の引用です。さらにパウロはダビデのことばを引用しました。7節「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ。主が罪をお認めにならない人」 これは詩篇32篇1節と2節からの引用です。アブラハムの人生を振り返ると、エジプトに入る時、自分の妻に妹と偽らせてエジプトに入り、エジプトの王に妻を取り上げられたことがありました。また、アブラハムは妻サラから女奴隷を与えられ、神様の約束を守れずに子を産ませてしまいました。ダビデはバテシェバと姦淫を犯し、また、彼女を自分の妻にするために、彼女の夫を戦死させました。アブラハムもダビデも私たちと同じ罪人とでした。それではなぜ、アブラハムは信仰によって義とされ、ダビデは罪が赦されたのでしょうか。19節「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。」20節「不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、」21節「神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」22節「だからこそ、『彼には、それが義と認められた』のです。」とあります。アブラハムは決して立派な人生を歩んだから義と認められたわけではありません。彼は、失敗をしながらも神様の約束を信じ続けました。それが彼の義と認められたのです。

 23節「しかし、『彼には、それが義と認められた』と書かれたのは、ただ彼のためだけではなく、」24節「私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえられた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」とあります。アブラハムの信仰は、自分が年を取り、子を産ませることができない体になっても、妻のサラが女性として子を産めない体になっても、神には不可能なことはない、神は約束されたことを必ず成し遂げてくださると、神様の約束を信じ、また、約束をしてくださった方が真実な方であると信じた、その信仰が義と認められたのです。同じように、私たちも、イエスが処女マリヤから生まれたこと、死より三日目に復活して天に昇られたことは、この世の常識では考えられないことです。しかし、私たちが神様の約束を信じ、また、約束をしてくださった神を真実なお方と信じるな、私たちもアブラハムと同じように信仰により義と認めてくださるということです。

マタイによる福音書20章に「ぶどう園で働く労務者」のたとえ話があります。このたとえ話で、朝早くから雇われ、遅くまで働いた人と、5時頃に雇われ、1時間しか働かなった人に同じ金額の賃金が支払われました。しかし、この金額は、最初から朝早くに雇われた人と契約した金額でした。それゆえ、この金額は不当な金額ではありません。ただ、朝早くから働いた人は、1時間しか働かなかった人にも同じ金額の賃金が支払われたことに腹を立てたのです。この感情は、熱心に律法を守っている人、熱心に信仰に励んでいる人に起こりやすい感情です。しかし、主人は彼らに言いました。13節「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と一デナリで同意したではありませんか。」14節「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」

5時ごろに雇われ、1時間しか働かなかった人に与えられたのは、「報酬」ではなく主人の「恵み」でした。神が私たちに備えてくださった天の御国は、努力して得るものではなく、自分の罪を認めて神に救いを求める者に与えられるということです。まじめで一生懸命な人ほど、努力して得たものに価値を見出します。そのような人にとって、努力もしない人に恵みや祝福が与えられることは、我慢ができないことです。しかし、人には努力できる人もいれば、努力できない人もいます。神はすべての人を天の御国に招きたいと願っておられるのです。神は私たちを愛し、プレゼントとして御国を与えてくださるのです。