マルコの福音書14章26節~42節
1、イエスとの関係を否定するペテロ
イエスは弟子たちにご自分が祭司長、律法学者たちに捕らえられることを聖書のことばを通して預言されました。27節「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる。』」イエスはこの出来事を旧約聖書のゼカリヤ書13章7節のみことばから引用されました。イエスはこれまでにも弟子たちに、ご自分が捕らえられ殺されることを預言されましたが、弟子たちはそのことを理解することができませんでした。また、理解しようともしませんでした。弟子たちはイエスがローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国の独立を宣言するものと信じ、その時には自分も高い地位に着けると期待していたからです。ですから、羊(自分たち)が散らされるというイエスのことばに、少なからず反発を感じたのではないでしょうか。弟子の中でも一番イエスのことばに反発を感じたのはペテロでした。彼はイエスに言いました。29節「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」このことばは、今のペテロの立場における真実な思いです。彼は心の底からそのことを信じていました。ペテロは自信をもってイエスに答えたのです。そんな自信をもってイエスに反論したペテロに、イエスはこのように言われました。30節「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」信頼し尊敬している先生にそのようなことを言われたペテロは、どのような気持ちだったでしょうか。31節でペテロは力を込めて言い張ったとあります。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」ペテロはこの言葉を固く信じていたことでしょう。では、実際に危機的な状況に立たされた、ペテロはどのような態度を取ったでしょうか。
66節~72節「ペテロが下の中庭にいるとき、大祭司の召使の女の一人がやって来た。ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。『あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。』ペテロはそれを否定して、『何を言っているのか分からない。理解できない。』と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。召使の女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。『この人はあの人たちの仲間です。』すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。『確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。』するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『私は、あなたがたが話している人を知らない』と言った。するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」ペテロはイエスが言われたように、イエスを三度も知らないと、イエスとの関係を否定してしまいました。ペテロは自分の弱さ(本当の姿)を知らされ、泣き崩れたのではないでしょうか。あのペテロの姿は私たちの姿を表しています。私たちの本当の姿はどのようなものでしょうか。私は、教会に来る前、自分は強い人間だと思っていました。また、もっと強い人間になりたい、ならなければならないと考えていました。それゆえ、自分を強めるために、高めるために、座禅や滝に打たれ修行する宗教に興味を持っていました。しかし、教会に誘われ、聖書を読み、学ぶうちに人間の本当の姿、弱さを教えられ、人間には神の助けが必要であることを学びました。また、自分自身の内側を見つめたときに、確かに自分の内側にも、ペテロと同じ弱さがあることに気付かされたのです。
2、ゲッセマネの園での出来事
イエスと弟子たちは祈りのためにゲッセマネにやって来ました。そこで、イエスはペテロとヤコブとヨハネを連れてさらに奥へと進んでいきました。そこでイエスは三人言われました。34節「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」さらにイエスは少し進んでこのように祈りました。36節「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」イエスが三人のところに戻ると、彼らは眠っていたとあります。そこでイエスはペテロに言われました。37節38節「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉体は弱いのです。」再びイエスは、三人から離れ、同じように祈られました。再び弟子たちのところに戻ると、弟子たちはまたも眠っていたとあります。イエスは三度目に弟子たちから離れ、同じように祈られました。そしてまた、弟子たちのところに戻ってみると、またしても弟子たちは眠っていたのです。そこでイエスは彼らに言われました41節「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」
このゲッセマネの園の場面で、マタイはイエスの祈りのことばを中心に描いています。しかし、マルコは、弟子たちが眠ってしまったことに、重点を置いているように思われます。ここで目を引く言葉が、34節「目を覚ましていなさい。」37節「一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。」38節「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」40節「弟子たちは眠っていた。」41節「まだ眠って休んでいるのですか。」ここで強調されていることは、祈りの内容よりも、誘惑に負けないように祈り続けなさいと言うことです。38節の「霊は燃えていても」という言葉が古い新改訳聖書の訳では「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と訳されています。弟子たちはイエスのことばに従い、目を覚ましていようと努力しましたが、肉体が疲れていたために目を覚ましていることができませんでした。また、ペテロは牢獄であろうと死であろうとイエスに従いたいと言う思いはありましたが、危機的な状況に置かれた時に、自分を守るためにイエスとの関係を否定してしまいました。それは、私たちの中になる弱さではないでしょうか。それゆえ、イエスは弟子たちに目を覚まして祈り続けることの大切さを教えられたのです。私たちは自分の力を過信してしまいます。モーセが40歳の時、自分の力でへブル人を助けようとしましたが、失敗してしまいました。彼が神のために働くためにはさらに40年の歳月が必要だったのです。神は80歳になったモーセにへブル人を助けるように命じられたのです。人間的な考えでは、40歳のモーセの方が、若さがあり、力があり、エジプトの王の娘の子という地位と権威がありました。80歳のモーセは、年を取ったただの羊飼いでしかありません。しかし、神はその80歳のモーセにへブル人を助けるように命じられたのです。コリント人への手紙第二12章9節10節でパウロはこのように教えています「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうち完全に表されるからである。』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」ペテロはこの失敗のゆえに自分の弱さを受け入れ、神に従う者に変えられました。私たちの本当の姿はどうでしょうか。自分の弱さを受け入れることは難しいことです。神は時として、失敗や挫折を通して自分の弱さに気付かせてくださいます。また、病気や老いを通しても自分の弱さに気付く時ではないでしょうか。私は今、自分の体力の衰えを感じています。また、すべての人は死と対面しなければなりません。その時、私たちはどのようにして、自分の死を受け入れることができるでしょうか。すべての人はいつか、死を迎えます。そのとき、死を恐れるのか、自分の死をあきらめるのか、神に自分の死も委ねることができるのか。私たちはその時のために、常に目を覚まして祈っている必要があるのです。