マリアの愛とイスカリオテ・ユダの裏切り

マルコ14:1~11

イエスが捕らえられ十字架に付けられて殺される日が近づきました。イエスが捕らえられる前に行われた対照的な二つの行為について学びます。

イエスの評判が高まるとともに、祭司長、律法学者たちのイエスの対する怒りも大きくなっていきました。彼らは、一日も早くイエス・キリストを殺さなければ、自分たちの教えが否定され、ユダヤ教自体がだめになると考えました。結局、彼らはユダヤ教を守るために神の子イエス・キリストを殺してしまったのです。また、彼らは、イエスを殺す時期を、過越の祭りが終わった後に実行しようと考えていました。なぜなら、過越の祭りは、ユダヤ教の三大祭りで、成人した男性はこの祭りの時には宮もうでをしなければならないと律法に定められていたからです。それゆえ、過越の祭りの時は大勢の人々が集まり、イエスを支持する人たちも大勢集まるのではと彼らは考え、過越の祭りの後にイエスを殺そうと考えたのです。しかし、神の計画はこの過越の祭りの時にイエスを殺すことでした。なぜなら、この過越の祭りは、旧約聖書の出エジプト記の出来事を起源としていたからです。神はモーセを通してエジプトに対して10の災害を与えました。その最後の災害が、エジプト中の初子を殺すという神の裁きでした。しかし、神はモーセを通して、羊の血を門とかもいに塗ることによって、神はその血を見てその家を通り過ぎると約束されました。イスラエルの民はモーセのことばに従い初子のいのちは助かりましたが、エジプト中の初子が死に、エジプト中が悲しみに包まれました。エジプトの王の初子も死に、彼はこの悲しみを通してイスラエルの民がエジプトから出ることを許可したのです。それゆえ、過越の祭りは、イスラエルの民にとって、神の救いを表す記念の祭りだったのです。

1、イエスに香油を注ぐマリア

 3節「さて、イエスがべタニアで、ツアラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭にそそいだ。」とあります。この出来事は、マタイの福音書とヨハネの福音書にも記されています。また、マタイの福音書でもこの女性の名前は記されていませんが、ヨハネの福音書にはこの女性がマリアであると記されています。マタイとマルコはあえてこの女性の名前を伏せたのかもしれません。ヨハネは晩年になってイエスの生涯を思い出しながらこの福音書を書きました。ヨハネはあえてこの女性がマリアであると明らかにしたのではないでしょうか。4節5節「すると何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリに売れて、貧しい人たちに施しができたのに。』そして、彼女を厳しく責めた。」

とあります。香油は当時の女性が体のにおいを消すために、お化粧として使われていました。また。その香油の金額が三百デナリと言われています。一デナリが一日の労働賃金と言われた時代です。三百日分の労働賃金、今なら約三百万円という高価な値段になります。マリアはそれほど高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。見ていた弟子たちはどれほど驚いたことでしょう。また、ヨハネの福音書では、このマリアをとがめたのはイスカリオテ・ユダであると記しています。彼は弟子たちのお金を管理していました。(ヨハネの福音書では、彼はそのお金を盗んでいたとも記されています。)また、彼はこの香油が三百デナリもする高価な香油であることに気が付いた男です。弟子たちのお金を預かる彼にとって三百デナリもする香油をいっぺんにイエスの頭に注ぎかけた姿は、まさにもったいない出来事にしか見えなかったのです。6節~9節「するとイエスは言われた。『彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたこともこの人の記念として語られます。』」イエスはこのように言われ彼女の行為を喜んで受け取られました。当時の状況は、イエスを捕らえ罰しようと律法学者、祭司たちは動き始めていました。しかし、弟子たちはそのような状況をあまり深刻に考えていなかったようです。このマリアもイエスの死が近づいているのを知りイエスの埋葬の準備に香油を注ぎかけたわけではありません。この少し前の出来事で、マルタとマリアの弟ラザロが、イエスにより死より生き返った出来事があります。マリアは弟を死より生き返らせていただいたことへの感謝の気持ちで、自分の持っている一番価値のある香油をささげ、自分の感謝の気持ちをイエスに表したのではないでしょうか。しかし、それが図らずも、イエスにとって埋葬の準備となり、この後に受ける苦しみの前に、イエスにとって唯一のうれしい出来事となったのです。(当時の埋葬は土葬です。肢体のにおいを消すために香油が使われていました。)

2、イスカリオテ・ユダの裏切り

ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネはガリラヤの漁師でイエスに声をかけられて弟子になった者です。しかし、イスカリオテ・ユダについては、彼がいつどこでイエスと出会い弟子になったのか記されていません。イスカリオテと言うのは地名でケリオテの人という意味です。ユダと言う名は一般的でしたから、他の人と区別するために、ケリオテ出身のユダと呼ばれていたようです。また、このケリオテという町は大きな町で、彼はガリラヤの田舎かから出て来た他の弟子たちとは少し違った雰囲気があったかもしれません。そのようなわけで、彼が弟子たちのお金を管理していたのかもしれません。また、何故、彼はイエスの弟子となったのでしょうか。これも憶測ですが、イエスの弟子となり将来、イエスがイスラエルの王となった時、自分も高い地位に着けると考えたのではないでしょうか。つまりそれは将来の出世を考えてと言うことです。(他の弟子たちもそのような考えを持っていたと思われます。)そこに、彼がイエスを裏切った理由があるのではないかと思われます。ところが、イエスはエルサレムに入ってもそのような行動を一切行いませんでした。そこで、イスカリオテ・ユダはイエスを見限り、イエスから離れる決心をしたのではないでしょうか。それだけではなく、彼はお金を得るために祭司長に近づいたのです。10節11節「さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところに行った。イエスを引き渡すためであった。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。」とあります。

神の愛とはどのようなものでしょうか。私たちの願いを何でもかなえてくれることでしょうか。ご利益宗教はその傾向があります。なんでも熱心に願えば叶えられるという考えは正しいようで大きな間違いです。それは、自分の願いのために神を動かすことであり、神を利用することです。それは信仰による祈りではありません。もし、親が子どもの願う物を何でも与えていたらどんな大人に成長するでしょうか。良い親とは子どもに何が必要なのかを判断できる親です。神は私たちの必要を知っておられます。それゆえ、私たちは安心して神に祈ることができるのです。神は私たちを愛しているがゆえに、わたしたちの最大の問題である罪の問題を解決するためにひとり子を犠牲にされました。イエスは私たちを罪から救うために十字架でいのちを犠牲にされました。それは神の愛の証です。イエスはイスカリオテ・ユダも愛しておられました。それゆえ、この後の晩餐の席で自分を裏切る者が誰であるかを明らかにされたのです。それは、彼に悔い改めのチャンスを与えるためでした。しかし、イスカリオテ・ユダは神の愛を拒み、イエスの前から去って行ったのです。ある、異端のグループがイスカリオテ・ユダは神様の計画に従ってイエスを裏切ったのだから、彼には罪がないと教えていました。しかし、それは間違った教えです。確かにイエスの弟子がイエスを裏切ることは定められていましたが、イスカリオテ・ユダでなくてもよかったはずです。彼は自らイエスを裏切ることを選んだのです。それゆえ、彼には大きな責任があるのです。マリアは神の愛に対して、自分の持っている最高の物(一番高価なものを)イエスにささげました。イスカリオテ・ユダはイエスに愛されていながらそれを拒みました。私たちは神様の愛を受けることも拒むこともできます。しかし、その責任は自分で取らなければなりません。イスカリオテ・ユダは最後、自分の犯した罪の重荷に耐え切れず、自ら首をつって自殺したとあります。神は私たち一人一人を愛しておられます。それが十字架のイエスお姿です。私たちは苦しみの中、問題の中にあるとき、神の愛をうたがってしまいます。しかし、どんな状況であっても神の愛はかわりません。神の愛は永遠で変わることがないからです。また、神の愛はどんな人も見捨てることがありません。イエスは、三度も自分を知らないと否定したペテロさえ愛し続けました。ペテロは自分の弱さを受け入れ、イエスの愛にしがみつきました。しかし、イスカリオテ・ユダはそのイエスの愛をも拒んでしまったのです。