世の終わりとその前兆

マルコの福音書13章1節~37節

マルコの福音書13章は、世の終わりと、その前兆について書かれています。今日は、世の終わりとその前兆について学び、どのようにその日を迎えたらよいのか、その備えについて学びます。

イエスの弟子の一人がイエスに言いました。1節「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」この弟子は神殿の石の大きさに驚き、この建物のすばらしさをたたえました。それに対してイエスはこのように言われました。2節「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスはこの時、AD70年にローマ帝国によって神殿が破壊されることを預言して言われました。また、オリーブ山においてイエスが宮に向かって座っていると3節4節「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」と尋ねました。彼らは「いつそれが起こるのか」また、「その前兆(しるし)」についてイエスに尋ねました。イエスはこの時、エルサレムの神殿の崩壊ではなく、世の終わりと、その前兆についてお話になられました。

1、世の終わりの前兆(5節~14節)

(1)偽キリストが大勢現れ人々を惑わす(6節7節)

(2)戦争(民族紛争)地震、飢饉(7節8節)

(3)キリスト者の迫害(9節)

(4)福音宣教(10節~13節)

(5)「荒らす忌まわしいもの」が立ってはならないところに立っているのを見る(14節)

2、世の終わりの時の注意点(15節~22節)

(1)山に逃げる。すぐに逃げる(15節、16節)

(2)偽キリストたち、偽預言者たちに惑わされない(21節、22節)

3、イエスの再臨について(24節~27節)

(1)自然災害(星が天から落ちる)(24節25節)

(2)人の子(イエス・キリスト)が雲に乗って栄光の姿で登場する(26節)

(3)選ばれた者たちが集められる(27節)

4、世の終わりの時の備え(33節~36節)

(1)目を覚ましている(いつ来ても良いように備えておく)(33節~36節)

私たちは世の終わりを避けることはできません。神はこの地上を六日で完成され、人をご自身に似せて創造し、この地上を管理するように命じました。しかし、最初の人アダムとエバは罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまいました。アダムとエバの子孫は神から離れ自分たちの欲望に従って地上を治めました。その結果、地上に悪が増大し、神はそれを見て地上を洪水で滅ぼされることを決意されました。しかし、ノアだけは神の前に正しく歩み、神はノアに洪水で地上を滅ぼすことを伝え、箱舟を造るように命じました。ノアの家族8人は協力して箱舟を造り洪水から助けられました。神はノアの家族からもう一度、地上をやり直されましたが、ノアの子孫も罪の問題が解決されず、神から離れ、この地上に悪が増大してしまいました。神はアブラハムと契約を結び、彼の子孫イスラエルの民を特別に祝福しました。神はイスラエルの民に律法を与え、その子孫から救い主を誕生させ、イエス・キリストの贖いによって人々の罪の問題を解決されました。旧約聖書の時代は律法の時代で、律法(神の戒め)を守ることによって救いを得ようとしました。しかし、今は恵みの時代、イエス・キリストを救い主と信じて救いを得る時代になりました。しかし、それでも世の終わりが無くなったわけではありません。ペテロの手紙第二3章7節「しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。」とあります。さらにペテロはこのように教えています。9節「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」イエスは「目を覚ましていなさい」と言われました。私たちはどのようにして目を覚まして世の終わりを迎えたら良いのでしょうか。マタイの福音書25章で、イエスは三つのたとえ話を通して天の御国を迎える準備についてお話になられました。

1、花婿を迎える十人の娘のたとえばなし(1節~13節)

このたとえ話で、五人は愚かで、五人は賢かったとあります。愚かな娘たちは予備の油を持っていませんでした。彼女たちは花婿の迎が遅れることを考えていませんでした。賢い娘たちは予備の油を持っていました。それは、花婿の迎えが遅れてもいいように備えていたということです。実際に花婿の迎えが遅れたとき、予備の油を準備していた娘たちは婚宴に招かれましたが、予備の油を準備していなかった娘たちは婚宴に入ることができませんでした。ここでイエスは油を何に例えているのでしょうか。色々な解釈はありますが、一番わかりやすいのは「信仰」と言うことではないでしょうか。信仰と言うのは何もしないで維持できるものではありません。悪魔は私たちを神から引き離そうと働いています。私たちが信仰を持ち続けるために必要なことは(1)礼拝を守る。(2)毎日祈る。(3)毎日聖書を読むとです。この三つのことを守ることによって私たちは神との関係を維持することができます。この三つを怠るとしだいに神から離れ、神との関係が薄れていきます。世の終わりの時まで私たちが神との関係を維持するため、また、世の終わりに備えるために、礼拝と祈りと聖書を読むことは欠かせない供えなのです。

2、賜物を用いること(14節~30節)

主人は旅に出かける前に、しもべたちを呼び、その能力によって五タラント、二タラント、一タラントを預けて旅に出かけました。五タラント預かったしもべはさらに五タラント儲けました。二タラント預かったしもべもさらに二タラント儲けました。しかし、一タラント預かったしもべはそのお金を地に隠し、増やす努力を怠りました。彼は預かったタラントを減らしてはいけないと考えたのです。主人が旅から帰って来て、しもべたちを集めました。五タラント預かったしもべは五タラント増やしたことを主人に褒められました。また、二タラント預かったしもべも二タラント増やしたことを主人に褒められました。しかし、一タラント預かったしもべは、その一タラントを地に隠し用いなかったこと(怠惰な行い)を責められ外の暗闇に追い出されてしまいました。ここで言われているタラントとは私たちが神から与えられている賜物を意味しています。私たちは神様から与えられた賜物を用いているでしょうか。また、この賜物は教会の徳を高めるために与えられているとも言われています。すべてのクリスチャンにこの賜物は与えられています。世の終わりの時、私たちが主の前に立った時、神は私たちがどのように賜物を用いたのかを聞かれるのではないでしょうか。

3、良き行いについてのたとえ(31節~46節)

 31節~33節「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」とあります。私たちは主の再臨の時、神の前に立たされ、右と左に分けられます。右側、御国にを受け継いだ者たちは、主(王)とは知らず、困っている人々を具体的に助けた人々です。また、左側、永遠の刑罰に定められた人々は、困っている人々に手を差し伸べなかった人々です。先週、学びました「自分の隣人を自分自身のように愛するとは、実際に隣人に手を差し伸べることでした。神は私たちを愛し助けてくださいます。また、神は私たちが同じように隣人を愛し助けの手を指し伸ばすことを願っておられるのです。

今まで、世の終わりの時の備えについて学んできました。しかし、私たちが忘れてはいけないことは、この供えを自分の力だけで行うのではないということです。神は、そのために私たちに助け主、聖霊を与えてくださいました。私たちの生まれつきの性質は自己中心で自分を第一に考えてしまいます。私たちは自分の弱さを認め、神に助けを求め、聖霊様の助けを得てはじめて世の終わりに備えることができます。そういう意味で、私たちの信仰生活に欠かせないのが、礼拝と祈りと聖書なのです。