マルコの福音書6章30節~44節
今日は、五つのパンと二匹の魚で男性だけで、五千人を満腹させたイエスの奇跡から学びます。この奇跡は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネの福音書に記された有名な出来事です。ただ、共観福音書が伝えていることと、ヨハネの福音書では、同じ出来事を記していても、この出来事のとらえ方に違いがあります。共観福音書は、この奇跡を通して、イエスの力、権威を示そうとしていますが、ヨハネは、この奇跡を通してイエスが誰であるかを伝えようとしています。共観福音書は、イエスの生涯を記したものですが、ヨハネの福音書は、イエスの弟子であったヨハネが晩年になって、イエスのなされたことを思い出し(黙想し)書かれたものです。それゆえ、著者であるヨハネの主観的な見方が色濃く反映されています。そこで、この出来事を通して、共観福音書では何が伝えられ、ヨハネは何を伝えようとしたのかについて学びます。
1、共観福音書とヨハネの福音書の違い
(1)共観福音書では、弟子たちがイエスに群衆を解散させて、めいめいで何か食べ物を買いに行かせるようにイエスに進言しています。ところが、ヨハネの福音書では、イエスがピリポに「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と尋ねられています。また、それは、ピリポをためそうとして言われたことであるとあります。
(2)それに対して、イエスは弟子たちに、「あなたがたの手で食べ物をやりなさい」と命じています。ここで、マタイの福音書で、弟子たちは「私たちはここに、パン五つと魚二匹しか持っていません」と答えました。マルコの福音書では「私たちが二百デナリ(約二百万円)ものパンを買ってきてみなに食べさせるのですか」と答えています。そして、イエスが「パンはいくつあるかみてきなさい」と言われ、弟子たちは「五つとそれに魚が二匹」と答えています。ルカの福音書では「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません。この大勢の人のために食物を買いに行くしかしなければ」と答えています。ヨハネの福音書で、ピリポはイエスに「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにもたりますまい」と答え、アンデレがイエスに「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っているこどもがいます。しかし、こんな大勢の人では、それが何になりましょう」と答えています。ここで、弟子たちがイエスに差し出した五つのパンと二匹の魚が、弟子たちのものではなく、こどもが持っていた食べ物であることをヨハネは証言しています。この違いは、マタイとヨハネはその場にいましたが、マルコとルカは、この出来事を人から聞いて記したためと思われます。また、マタイは、このパンと魚が誰のものであったかというより、そこには、五つのパンと二匹の魚という少しの食べ物しかなかったことを記したものとおもわれます。実際にはヨハネが記したようにこどもが持っていたものと思われます。共感福音書がこの個所で私たちに伝えようとしたのは、イエスは五つのパンと二匹の魚という少ない食料で男性だけで五千人を満腹させ、さらに、パンくずを集めると十二かごを満たすほどに祝福されたということです。
(3)男性だけで五千人以上の人々にパンと魚を与えるイエス
イエスが群衆にパンと魚を増やす様子は、共感福音書もヨハネの福音書も同じように記しています。「人々を五十人、百人のグループで座らせ、イエスは五つのパンと二匹の魚を手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンを裂き、弟子たちに渡して配らせ、また、二匹の魚もみなにお分けになった。」とあります。そして、皆が満腹したのち、パンくずを集めると十二かごいっぱいになったとあります。ただ、ヨハネの福音書には次の文章が付け加えられています。「人々はイエスのなさったこのしるしを見て、『ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である』と言った。」共感福音書には書かれていませんが、群衆はこの体験を通して、イエスがモーセのような偉大な預言者であると信じたのではないでしょうか。
2、共観福音書の著者たちが伝えようとしている事と、ヨハネが伝えようとしている事。
共観福音書の著者たちが伝えようとしていることは、イエスの力、権威が、ツアラアトをきよめる権威、中風の人の罪を赦す権威、風と波を静める権威、悪霊を追い出す権威、死人を生き返らせる権威、長血の病をいやす権威があることをしるし、さらに、男性だけで五千人以上の人々の空腹を満たすことによって、モーセや旧約聖書の預言者以上の権威と力がイエスに与えられていることを示そうとしています。しかし、人々の反応は、あくまでも、イエスをモーセや旧約聖書の預言者たちと同じような預言者としてしか理解できなかったのです。
ヨハネは、この出来事の後の状況を詳しく記しています。人々はこの奇跡を通して、イエスを捕らえ自分たちの王に祭り上げようとしたことを記しています。それゆえ、イエスは彼らから身を引かれました。しかし、それでも、群衆がイエスを追ってきたため、イエスは彼らと永遠のいのちについて論じられたことが記されています。イエスはここで、ご自分が「わたしがいのちのパン」であることを宣言されました。また、このいのちのパンは、モーセが与えたようなパン(マナ)ではなく、永遠のいのちを与える真の食物であると言われました。旧約聖書で、モーセを通して与えられたパン(マナ)を食べた者は、旅の途中で死んでしまいました。しかし、神が与える真のパン「イエス」を食べる(信じる)者は永遠のいのちを持つと言われたのです。これを聞いて、人々はどう思ったことでしょう。彼らは「これはひどい言葉だ」と言って、イエスにつまづき、多くの弟子たちがイエスから去って行ったとあります。イエスはパンの奇跡から、ご自分が「いのちのパン」であることを宣言されました。また、このパンを食べる(信じる)者は永遠のいのちを持つと言われました。先ほど、群衆にパンを配るとき、イエスは「天を仰いでそれを祝福しパンを裂いた」とありました。男性だけで五千人以上の人々を満腹にするためには、パンが裂かれなければなりませんでした。私たちが救われるためには、神の子の体が裂かなければなりませんでした。それは、イエスの十字架の死を表しています。イエスは無から食べ物を出すことができるお方なのに、あえてこどもが持っていたパンを差し出させました。そのパンを弟子たちの見てる前で裂いて、パンを増やされました。そこには、後にささげられるご自身の体が象徴的に表されていたのです。ヨハネも初めはそのことに気が付きませんでした。彼が晩年になり、イエスの生涯を描き始めた時、この出来事を思い出し、イエスと群衆の議論を思い出して、彼が初めて、イエスが行われた、五つのパンと二匹の魚の本当の奇跡の意味に気が付いたのです。私たちが永遠のいのちを得るためには、神の子の体が裂かれる(命を奪われ)なければ、永遠のいのちはありませんでした。そして、私たちが、イエスを神の子と信じるとき、はじめて、私たちはこの永遠のいのちを自分のものとすることが出来るとヨハネは、この奇跡の出来事を通して私たちに教えているのです。