十字架への道(3)祈りと決断

マルコの福音書14章27節~42節
27節28節で、イエスは弟子たちが自分のことを裏切ることを彼らの前で預言されました。それを聞いてペテロや弟子たちは絶対にないとイエスの言葉を否定しました。ペテロは「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」とまで言いました。しかし、実際にイエスが捕らえられると、弟子たちはイエスを一人残して逃げてしまい、ペテロはイエスのことが心配で、裁判の場所まで行きますが、そこで、イエスが言われたように、イエスを三度も知らないと言ってしまいました。
弟子たちとペテロの裏切りについては、来週、学びます。
1、祈りについて
祈りとは、神が人間に与えてくださった特別な恵みです。神は天地すべてを六日間で創造されました。また、神は人をご自身に似せて創造されたとあります。神に似せてとは外見を神に似せて創造されたという意味ではありません。神は人をこの地上を管理する者として創造されました。それゆえ、神は人が神とコミュニケーションができる存在として特別に創造されたという意味です。その証拠に、神が創造されたもの中で人間だけが神を認識し、神に祈ることができます。他の生き物は、どんなに賢くても神に祈ることはできません。また、どんなに未開の部族でも、何かの神々を祀り、崇めています。そこにも、神が人間を特別に神に似せて創造された証拠です。しかし、人間は罪を犯し、真の神との関係を失ってしまいました。そこで、人間は、太陽や月などの自然や人や動物を神として崇めるようになりました。聖書はそれを偶像礼拝と呼び、神はこの偶像礼拝を最も大きな罪とし、モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の中で、一番初めに戒められたのです。
日本人の多くが、祈りとは神に何かをお願いすることと考えています。しかし、祈りとは自分の願いを神に叶えてもらうためにするものではありません。新興宗教では、多額の献金をしたり、苦しみや苦痛に耐えることによって、自分の願いを神に叶えてもらおうとします。しかし、それは自分の願いを叶えるために神を利用しようとすることで、決して神に喜ばれる祈りではりません。
2、イエスの祈りと決断
聖書の中には、祈りについて書かれている箇所が何か所かありますが、模範的な祈りとして私たちが一番に学ぶのは、このゲツセマネでのイエスの祈りです。イエスは、自分が苦しみを受けて殺され、三日後によみがえることを何度か弟子たちに預言しています。しかし、このゲツセマネの時点では、イエス個人としては、別の道を願っていたのではないでしょうか。それゆえ、イエスは神に36節「アバ、父よ、あなたには何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」と祈っています。この「杯」とは、十字架の死を意味しています。それゆえ、イエスはこの時、十字架の死ではない、ほかの救いの道を求めていたということです。しかし、イエスは、自分の願いではなく、神の計画がなるように求めています。イエスはこの祈りを三度されました。イエスはこの三度の祈りによって神の御心が、十字架で死ぬことであることを確信し、十字架への道を一歩踏み出されたのです。もし、イエスが十字架の道ではなく、人々がイエスに求めているように王になる道を選んだとしたら、私たちの罪の問題はどうなっていたでしょう。イエスにとっては王となる道の方が魅力的で楽だったのではないでしょうか。イエスが荒野で四十日断食をしたのち、サタンが誘惑した場面があります。その誘惑の中で、サタンはイエスにこの世のすべての王国と栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげよう。」と言いました。しかし、イエスは「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」と言って、サタンの誘惑を退けられました。
私たちは、人生の中で、時おり「岐路(分かれ道)」に立たされることがあります。その時、私たちはどのようにして道を選んできたでしょうか。神を知る以前は、自分の知恵や友人に相談して決めることが多かったのではないでしょうか。その基準は、自分の利益を考え、自分にとって楽で楽しい道を選んできたのではないでしょうか。クリスチャンになってからはどうでしょうか。神に祈りながらも、楽な道、自分の願う道を選んできたのではないでしょうか。私が小手指教会に赴任するとき、恩師の先生が言われました。「選択で道に迷ったときは、難しい道を選びなさい。その道こそが神の御心であることが多い。」確かに、私たちは楽な道や人からの称賛を得る道を好みます。しかし、時として、神は私たちに困難な道を備えることもあります。私たちは将来のことがわからないので、目先のことで判断を下そうとしてしまいます。しかし、神は私たちが見る先の先まで見て、私たちに良いものを与えてくださいます。私たちは、神への信頼があって、はじめて、神の備えられた道を歩くことが出来るのです。イエスは、神への信頼があったゆえに十字架の道を選ばれたのです。
私が25歳で洗礼を受ける時、中学三年生の少年と一緒でした。彼は高校受験を控え、ミッション系の高校に行きたいと願っていました。両親も熱心なクリスチャンで、教会でも彼のために祈っていました。しかし、彼は受験に失敗して教会に来なくなってしまいました。私たちは彼がもう一度、教会に来るように祈りました。それから三年が経ち、彼は高校三年生となり、再び教会に来るようになりました。また、彼はミッション系の大学に入学することを願っていました。教会ではもう一度、彼がミッション系の大学に合格するように祈りました。しかし、またも合格できませんでした。彼は浪人して、もう一度、ミッション系の大学を目指しました。一年後、次は浪人が出来ないので、五つの大学を受験しました。しかもその一つは、滑り止めにと、私が卒業した東京基督教大学を受験しました。結果は、四つの大学に落ちて、滑り止めに受けた東京基督教大学しか受かりませんでした。彼は、仕方なく東京基督教大学の国際基督教学科に進みました。東京基督教大学では、牧師のコースではなくても、聖書の学びがあり、毎日、礼拝の時間があります。彼は、その大学の生活の中で、しだいに聖書の学びに興味を持つようになりました。また、牧師になりたいという思いが与えられ、翌年、牧師のコースに編入しました。彼は後に、もし自分の願う道に進んでいたら今の自分はなかったと言いました。高校と大学に落ちた時、自分は神に見捨てられた、自分は神に愛されていないと感じたそうです。しかし、今はそうではなく、神が自分を愛しているからこの道に歩むことが出来たと確信しています。私たちは先のことを見ることはできません。しかし、神はすべてをご存じで、私たちに良いものを与えてくださいます。たとえ初めは苦しい道でも、その先には、神の祝福が備えられています。それゆえに。私たちの祈りは、自分の願いを叶えるためではなく、神の御心がなるように祈ることが出来るのです。