十字架への道(4)裁判と弟子の裏切り

マルコの福音書14章43節~72節
1、イエスが捕らえられる前の弟子たち
イエスは祭司長たち、律法学者たちに捕らえられる前に、弟子たちに対して、自分一人を置いて弟子たちが逃げていく(つまずく)ことを旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の御ことばを通して預言されました。27節イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみなつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散らされる』と書いてあるからです。」それに対してペテロがイエスに言いました。29節「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」また、イエスはペテロに言いました。30節「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたはわたしを知らないと言います。」ペテロは力を込めて言いました。31節「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」また、皆も同じように言ったとあります。ここまでが、イエスがゲツセマネの園で祈る前の弟子たちの姿です。
2、祭司長たち律法学者たちに捕らえられるイエス
43節「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現われた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。」イエスを裏切るユダは、私が口づけするのがその人だから、その人を捕らえるように打ち合わせをしていました。そして、ユダがイエスに口づけすると、人々はイエスを捕らえたとあります。イエスは彼らに言われました。48節49節「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」すると50節「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とあります。先程は、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張った、ペテロや弟子たちですが、実際にイエスが捕らえられると、自分の命を守るために、イエスを一人置いて、逃げてしまいました。ここに人間の意志の弱さを見ます。また、51節52節に「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」あります。この裸で逃げた青年こそ、このマルコの福音書を書いた、マルコ自身だと言われています。
3、祭司長たち律法学者たちから裁かれるイエス
53節から64節まで、イエスの裁判の状況が記されています。この裁判はサンヘドリンと呼ばれるユダヤ教の指導者たちによる正式な裁判です。しかし、その内容は、初めからイエスを罪に定めるために仕組まれた裁判で、そのために、偽証をする者まで準備していました。しかし、それでもイエスを正式に罪に定めることはできませんでした。そこで、大祭司はイエスに尋ねました。61節「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」この言葉は、短い言葉ですが、非常に重要な意味を含んだ言葉です。もしここで、イエスがこの言葉を否定したならば、イエスは死刑を免れます。しかし、それは自分がキリスト(メシヤ)でないことを自ら認めることになります。また、この言葉を認めて、自分がキリスト(メシヤ)である事を認めるならば、神を冒涜した罪に問われ死刑の判決が下されます。どちらに答えても、イエスにとっては不利な立場に立たされます。イエスはそれを理解したうえで、大祭司に答えました。62節「わたしが、それです。あなた方は、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来ることを見ることになります。」イエスは死刑の判決が下ることを覚悟して、自らが旧約聖書に預言されているキリスト(メシヤ)である事を認めました。それを聞いて大祭司は63節「『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』すると彼らは全員で、イエスは死刑に値すると決めた。」とあります。ユダヤ教では、人間が自分を神と宣言することは、神を冒涜した罪により、死刑になることが決められていました。大祭司はこの言葉をイエスから引き出すために、先ほどの質問をイエスに投げかけ、イエスはそのことを知りつつ、死刑になることを覚悟し、ご自分がキリストであることを認められたのです。イエスは、真の神の子キリストです。それゆえ、真実を述べたのですが、大祭司や群衆はそれを理解できずに、イエスを罪に定め、死刑の判決を下したのです。イエスは無実でありながら、死刑の判決が下されたのです。
4、ペテロの否認
66節から72節に、ペテロがイエスの弟子であることを否認した姿が描かれています。ペテロは、いったんは逃げたもののイエスのことが心配でイエスの裁判を見に行ったのでしょう。そこで思わぬ事態が起こりました。大祭司の召使の女がペテロを見かけて言いました。67節「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいました。」68節「ペテロはそれを否定して、『何を言っているのか分からない。理解できない』と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。」69節「召使の女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。『この人はあの人たちの仲間です。』」70節「すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った『確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。』」71節「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『私は、あなたがたが話しているその人を知らない』と言った。」72節「するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」とあります。ペテロは自分も捕らえられて死刑にされるのではないかと恐れて、自分がイエスの弟子であることを否定してしまったのです。それだけではなく、イエスはそのことを知って、ペテロが自分の弟子であることを否定することを話したのですが、ペテロはそのとき、絶対にそんなことはないとイエスの言葉を強く否定しました。ペテロはその時のことを思い出し、自分の弱さ、ふがいなさを覚えて泣き崩れたのでしょう。しかし、誰がペテロのことを責めることができるでしょうか。もし、自分がペテロと同じ立場に立たされたとしたら、私たちはどのような態度をとるでしょうか。ルカの福音書には次の文章が付け加えられています。ルカの福音書22章61節「主は振り向いてペテロを見つめられた。」それはどのようなまなざしでしょうか。決して、ペテロを責めるまなざしではなかったはずです。そのまなざしは、ペテロに対する赦しのまなざしではなかったでしょうか。ある時、ペテロがイエスに質問しました。マタイの福音書18章21節「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」22節「イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』」七回を七十倍するまでとは、回数の問題ではなく、何度でも赦しなさいという意味です。私たちは七回も赦すことはできません。まして、何度でも赦すことなど出来ません。しかし、イエスだけは違います。イエスは私たちの罪を赦すために十字架で命を犠牲にされたお方です。イエスはペテロの弱さを受け入れて、彼を憐れみのまなざしで見つめたのではないでしょうか。また、神は私たちに完璧を求められません。もし、神が私たちの失敗を赦さない神であれば、誰が、神の前で、信仰を持ち続けることが出来るでしょうか。神は、愛の神であり、赦しの神です。それゆえ、私たちは今でも、神の愛と赦しのゆえに、神を礼拝することができるのです。