役割を全うしたバプテスマのヨハネ

ヨハネの福音書1章19節~34節

私たちが何か物を作る時には、役割や目的を持って作ります。それと同じように、神も私たちに役割や目的をもって、この地上に生み出してくださいました。それゆえ、すべての人に神の目的があり、私たちは神の目に高価で尊い存在です。

キリスト教を世界中に広めたパウロはタルソという町の出身です。タルソは大きな町で文化都市でした。また、異邦人(ユダヤ人以外の民)が多く住んでいました。それゆえ、パウロは子供の頃から異邦人との接触があったものと思われます。ユダヤで生活していたペテロや他の弟子たちは、律法で外国人と交わってはならないと教えられていました。それゆえ、彼らが異邦人と交わり食事をすることは大変難しかったと考えられます。それゆえ、神は初めから異邦人伝道のためにパウロを選び、異邦人の多いタルソで生活させたものと考えられます。

1、バプテスマのヨハネの誕生(ルカの福音書1書8節~23節、57節~66節)

ユダヤ人は旧約聖書を神のことばと信じ、神の約束であるメシヤを待ち望んでいました。また、旧約聖書には救い主の前に道を整える者が現れることが約束されていました。ルカの福音書を書いたルカは、それを意識してか、イエス・キリストを紹介する前に、バプテスマのヨハネの誕生から書き始めました。ルカの福音書1章8節を見るとバプテスマのヨハネの父ザカリヤは祭司であることが記されています。妻はエリサベツです。二人は高齢になっても子を得ることが出来ませんでした。そんな時に、主の使いがザカリヤに現れ、妻のエリサベツが男の子を産むことを告げ、その子をヨハネと名付けるように命じました。そして、その子は聖霊に満たされ、エリヤの霊と力で、主の前に先立って歩み、主のために整えられた民を用意する者になると告げたのです。ザカリヤは自分も高齢で妻も高齢となり子を産むこともできないのに、自分たちから主の道を整える者が生まれるなど信じることが出来ませんでした。主の使いは自分がガブリエルであることを告げ、彼が主の言葉を信じなかったので、子が生まれるまで口がきけなくなると言われました。主の使いの言葉通り、彼は子が生まれるまで口がきけなくなってしまいました。また、子が生まれて、その子にヨハネという名が付けられると、ザカリヤは再び口が利けるようになったのです。

2、悔い改めのバプテスマを教えたバプテスマのヨハネ(ルカの福音書3章1節~17節)

バプテスマのヨハネは成長して、ヨルダン川で罪の赦しに導くバプテスマを宣べ伝えたとあります。ユダヤ教の教えの中にも、罪の赦しを受けるためのバプテスマはありました。しかし、それは異邦人が罪の赦しを受けるための教えであって、アブラハムの子孫であるユダヤ人は清い民なのでバプテスマを受ける必要はないと律法学者たちは教えていました。ところが、バプテスマのヨハネは、ユダヤ人も罪人でありバプテスマを受けなければ救われないと教えたのです。バプテスマのヨハネのことばを聞いて、多くの者が自分の罪を自覚し、彼の前に集まりバプテスマを受けました。バプテスマのヨハネの働きは、まさに、救い主イエスが宣教の働きをする前に、人々を悔い改めに導き、主の前に道を整える働きだったのです。

人々は、彼の働きを見て、彼こそ旧約聖書で預言されたキリスト(救い主)ではないかと期待しました。しかし彼はこのように言って彼らの期待を退けました。ルカの福音書3章16節「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力ある方が、来られます。私はその方の履物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」客の履物のひもを解く仕事は、一番下のしもべの仕事とされていました。バプテスマのヨハネは、救い主と自分を比較して、履物のひもを解く資格もないほど、自分が救い主よりも低い存在であると言ったのです。

3、イエスに洗礼を授けるバプテスマのヨハネ(マタイの福音書3章13節~17節)

イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川にやって来ました。バプテスマのヨハネは、イエスこそ救い主で、自分に洗礼を授けるお方であると感じこのように言いました。14節「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」イエスは彼に言われました。15節「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」16節17節「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降ってこられるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』」バプテスマのヨハネはそれ以前にこのような言葉を神から受けていました。ヨハネの福音書1章33節「私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』」34節「私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」バプテスマのヨハネの役割は大きく分けて二つありました。一つは、ユダヤ人に悔い改めのバプテスマを授け、主の前に整えられた民を作ること。もう一つは、救い主が誰であるか証しすることでした。

バプテスマのヨハネがヘロデ王により牢獄に捕らわれていた時、彼は牢獄からイエスの許に自分の弟子を遣わしてイエスに言いました。マタイの福音書11章3節「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」イエスは彼に答えられました。4節~6節「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者が見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」バプテスマのヨハネはイエスのこの言葉を聞いて、イエスこそ救い主であると確信したのではないでしょうか。この後、イエス・キリストは、彼が旧約聖書に預言された、救い主の前に道を整える者であることを証言し、預言者よりも優れていることも証言しています。バプテスマのヨハネはヘロデ王によって首をはねられ殺されてしまいました。しかし、彼は、神より託された役割を成し遂げたことに満足して最期を迎えたのではないでしょうか。

私たちは偶然に生まれた者ではありません。わたしたちに命を与えてくださった創造主なる神がおられます。神はパウロやバプテスマのヨハネと同じように、役割と目的を持って私たちに命を与えてくださいました。そこに私たちの尊厳と価値があります。神は私たちを愛し、私の目に高価で価値があると言ってくださいました。その神の愛に応える生涯を送りたいと思います。