マルコの福音書12章13節~27節
アドベントに入って、イエス・キリストの誕生について説教をしてきました。新年を迎えこれからまた、マルコの福音書に戻りたいと思います。今日は、前回からの続き、マルコの福音書12章13節から「ローマ政府に納める税金」と「「死よりの復活」について考えます。
1、ヘロデ党とイエス(13節~17節)
イエス・キリストが宣教活動をしていた時代、ユダヤはローマ政府に支配されていました。ただし、ローマ政府はユダヤ人による自治権を認め、サンヘドリンという議会によって国を運営することを許していました。そのサンヘドリン(ユダヤ人議会)のメンバーは、サドカイ派とパリサイ派で占められていました。サドカイ派はローマ政府と友好な関係を持ち、経済的に豊かな人々の集まりでした。パリサイ派はユダヤ教に熱心な人々の集まりで、人々に律法(神の戒め)を熱心に指導する人々で、ユダヤ人の支持を受けていました。それ以外のグループとして、ヘロデ党というグループがありました。ヘロデ党とは、ヘロデ王朝の復権を望む人々で、政治的にはサドカイ派と同じ、ローマ政府寄りの考えを持っていました。そんな状況で、イエスの宣教は進められ、人々は、しだいにイエスの教えに興味を持ち、人々がイエスの周りに集まるようになりました。それを見た、サドカイ派、パリサイ派、ヘロデ党の人々は、イエスの存在を恐れ、早い段階でイエスを失脚させなければという意識が生まれました。そこで、三つのグループはイエスを失脚させるために協力するようになったのです。そこでまず、ヘロデ党とパリサイ人が協力してカエサル(ローマ政府)に税金を納めることが律法にかなっているか、また、税金を納めるべきか、納めるべきではないかをイエスに問いかけました。ここで言われている「税金」とは今私たちが支払っている税金とは違います。これは「人頭税」と言われるもので、ローマ政府に納める税金で、ユダヤ人はこの税金を支払うことを嫌がりました。ここでイエスがこの税金を納めるべきではないと言えば、ヘロデ党の者がローマ政府に反逆罪でイエスを訴えることが出来ます。また、イエスがこの税金を納めるべきだと言えば、律法学者が反論し、民衆の怒りをイエスにむけることができます。どちらに答えてもイエスの立場を悪くする質問です。ここでイエスはデナリ銀貨を持ってこさせました。そして言いました。16節「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは「カエサルのです」と答えました。するとイエスは彼らに言われました。17節「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」当時、一般的にはローマの貨幣が使われていましたが、神殿に納めるお金は、ユダヤの貨幣で納められていました。そこで、イエスの答えは、すべての権威は神からのものであり、ローマ政府も神によって建てられていることを認め、今はローマ政府に税金を支払いなさい。ただし、神に対しても責任を果たすために、神殿にはユダヤの貨幣で税金を支払うように言われたのです。彼らはイエスの答えに驚嘆したとあります。
2、サドカイ人とイエス(18節~27節)
サドカイ人は、旧約聖書の中で創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つの書だけを神のことばと信じていました。また、その五つの書の中には復活については何も書かれていないので、彼らは死後の復活について信じていませんでした。彼らがイエスに話した戒め、子を残さずに夫を亡くした女性をその兄弟が妻に迎えて子孫を残すことは、申命記25章に記されています。また、実際に創世記の中でヤコブの息子ユダが自分の息子エルが死んだときに、その妻タマルを弟のオナンに嫁がせています。それは、夫を失ったやもめを助けるためと、その家系の子孫を残すために行われたことです。ここで、サドカイ人は、七人の兄弟がおり、七人とも子を残さないで死んだため、この女性は七人の男性と結婚しました。その後、彼女も亡くなり、復活の後、誰が彼女の夫になるのでしょうかと質問したのです。実際には、七人の兄弟が次々に亡くなるということは考えられないことですが、復活を信じない彼らが、復活を信じるパリサイ人に対して、復活の矛盾を指摘するために考えた話です。イエスは彼らにこのように答えられました。25節「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」ここでイエスは、天の御国はこの地上の延長線上にあるものではなく、天の御国では御使いと同じような存在となり、人はもはや、めとることも嫁ぐこともないと言われました。また、イエスは旧約聖書の出エジプト記、神がご自身をモーセに紹介した26節「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という箇所を引用し、27節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」と言われました。ここで神はモーセに対して、ご自身を表すために、「アブラハムの神だった、イサクの神だった、ヤコブの神だった」と過去形ではなく、生きた者として「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表されたということです。確かに彼らは地上では死んだ者ですが、永遠なる神の前では彼らは依然として生きている者です。この個所を通して、神は終わりの日の復活を約束しておられることをイエスは彼らに示されたのです。
しかし、ここで大切なことは、復活した後、私たちは二つに分けられるということです。復活して罪ある者は自分の罪のゆえに神の裁きを受けることになります。天の御国に入れる者は罪のない者だけです。そこで、律法学者たちは、熱心に神の戒め律法を学び、律法を守ることによって天の御国に入ろうと努力しました。しかし、聖書はすべての人は罪を犯したと記しています。それゆえ、その問題を解決するために、イエス・キリストが人として生まれ、人の罪の身代わりとして十字架で死なれ、三日目に死より復活して天に昇って行かれました。聖書はイエス・キリストを神の子と信じる者は、イエスの十字架の死ゆえに、罪赦された者として天の御国に迎えられると教えています。イエスが生まれるまでは、律法の世界で、努力して罪のない者になる道しかありませんでした。しかし、それも天の御国に到達できない道でした。それが、イエスが生まれ、十字架で命を犠牲にされることによって、神の恵みによる救いの道が備えられたのです。それが、新約聖書に記されている「福音」という意味です。私たちは今、恵みの時代に生きています。今、私たちの前には、滅びに至る道と、天の御国に至る道があります。私たちはどちらに進むべきでしょうか。それは、私たちが生きている間に決めなければならないことなのです。