律法学者とイエス

マルコの福音書12章28節~44節

初めに、ヘロデ党の者とパリサイ人が協力して、カエサル(ローマ政府)に税金を払うことが律法にかなっているのか、また、税金を払うべきか払うべきではないかをイエスに質問しました。イエスは、デナリ銀貨を持ってこさせ、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言って彼らに答えられました。次に、死者の復活を信じないサドカイ人がイエスに死人の復活について質問しました。イエスは神がモーセにご自身を紹介された「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」ということばを用いて、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」と言われました。

1、律法学者とイエス(28節~34節)

その続きとして、今日の箇所は、律法学者が「すべての中で(律法の中で)どれが第一の戒めですか。」と質問しました。この質問は先の二つの質問とは違い、イエスを罪に定めるためではなく、イエスが律法をどの程度正しく理解しているかを試すための質問です。イエスはそれに対してこのように答えられました。29節30節「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」さらに31節「第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスの答えを聞いて、イエスが正しい律法の知識を持っていることを認めました。これ以降誰もイエスに尋ねる者いなかったとあります。

2、キリスト(メシア)とダビデの子(35節~40節)

サドカイ人、パリサイ人、ヘロデ党の人々は、イエスの言葉尻を捕らえて罪に陥れようと画策しましたが、イエスの知恵に驚嘆して、イエスを罪に定めることができませんでした。今度は、イエスの方から人々(主にパリサイ人)にダビデの子について質問を投げかけました。人々は、当然のように、メシアはダビデの子孫から生まれると信じていました。イエスはこの「メシアがダビデの子孫から生まれる」という考え方に疑問を呈したのです。35節~37節「どうして律法学者たちは、キリスト(メシア)をダビデの子だと言うのですか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」イエスは詩篇100篇の1節を引用しました。ここで最初の「主」はヘブル語のヤハウェということばが使われ、次の「私の主」には「アドナイ」という言葉が使われています。ダビデは聖霊に満たされて、「主(ヤハウェ)」と「私の主(アドナイ)キリスト」が存在していることを告白しています。私たちは「三位一体」という神の性質を信じています。神は唯一であるが、一つの神の中に、父なる神と子なるキリスト、聖霊なる神が調和して存在しておられる。しかし、当時の人々は、神は創造主なる神しかいないと信じていました。その時代に、ダビデは「主」と「私の主(キリスト)」が存在していることを意識してこの詩篇を作ったのです。それゆえ、イエスはここで、キリスト(メシア)は確かにダビデの子孫として生まれるが、その存在は、ダビデ以上の特別な存在であることをこの詩篇から説明しようとされたのです。しかし、律法の専門家であるパリサイ人たちは、そのことを理解できませんでした。

3、献金について(41節~44節)

今、統一協会の問題がテレビで取りざたされています。特に、彼らが多額の献金を脅し取り、借金をさせてまで献金をささげさせる姿勢に批判が集まっています。私たちも毎週礼拝の中で献金をささげています。ここで、もう一度、献金について考えたいと思います。献金は強制されてささげるものではありません。また、神は高額な献金を求めているわけではありません。41節を見るなら「それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れている様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」

とあります。42節「そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」とあります。欄外に一レプタは一デナリの百二十八分の一に相当する最小単位の銅貨であると記されています。一デナリは一日の労働賃金に相当すると言われています。仮に、一デナリを一万円とすると、一レプタは約78円に相当します。彼女がレプタ銅貨を二枚ささげたということは、約156円を神にささげたということです。イエスは弟子たちに言われました。43節「まことにあなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」彼女が投げ入れたのはレプタ銅貨二枚、金額にして156円です。それなのに、なぜ、イエスは彼女が誰よりも多く投げ入れたと言われたのでしょうか。44節「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたからです。」と言われました。ここで彼女がどうして持っていた生活費すべてを神にささげたのかはわかりません。おそらく、何かの感謝の気持ちがあって生活のすべてをささげたものと思われます。しかし、大切なことは、なぜ、彼女が生活費のすべてをささげることができたかということです。私たちは、明日の生活のことやその先のことを心配して生活しています。しかし、彼女は、確かに神によって生かされていることを信じていました。この生活費を神にささげても、神は必ず必要を与えてくださるという信仰を持っていたので、生活費のすべてをささげることができたのです。献金にも色々な献金があります。礼拝献金、感謝献金、月定献金、十分の一献金など。その中で、月定献金(毎月神と約束した金額をささげること)と十分の一献金(収入の十分の一をささげること)は、神との約束が伴う信仰による献金です。自分で働いて得た収入から献金をしようと思う人には、月定献金と十分の一献金はできません。月定献金と十分の一献金は、神が私たちの生活を養ってくださっているという信仰がなければささげることはできません。神は私たちの健康を守り、仕事を祝福し必要を満たしてくださる。それゆえ、私たちは安心して月定献金、十分の一献金ができるのです。神は私たちがささげた献金の額ではなく、信仰を見てのおられるのです。先程のお話で、お金持ちは多くの金額を献金したかもしれませんが、彼らの信仰はそれに伴っていたでしょうか。少なくとも、この貧しいやもめは、金額は彼らよりも少なかったですが、神への信頼と信仰は彼ら以上の信仰を持てそのレプタ銅貨二枚をささげたのです。イエスはその信仰を見られ、彼女が誰よりも多くをささげたと言われたのです。私たちはどのような信仰をもって献金をささげているでしょうか。もう一度、私たちがささげている献金について考えたいと思います。