神からの権威と人からの権威

マルコの福音書11章20節~33節

イエスが空腹を覚えられ、葉の茂ったいちじくの木を見つけて、何かありはしないかと見に行かれました。しかし、葉のほかはなにもありませんでした。実のなる季節ではなかったからです。イエスはその木に向かって14節「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われました。翌朝早く、弟子たちがいちじくの木の近くを通りかかると、いちじくの木が根元から枯れているのが見えました。ペテロはそれを見てイエスに言いました。21節「先生。ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」この出来事を通して、イエスは弟子たちに祈りについて教えられたのです。

1、叶えられる祈りと叶えられない祈り(22節~25節)

祈りとは、神が人間に与えられた特権です。人間以外の生き物が神に祈ることはありません。旧約聖書の創世記において、神は人をご自身に似せて創造されたとあります。その意味は、外見を神に似せて創造されたという意味ではありません。神に近い存在、神とコミュニケーションができる存在として創造されたと言う意味です。なぜなら、神は人をこの地上を管理させるために創造されたからです。しかし、その関係を壊したのが、人間の罪でした。それゆえ、人間が神からの特権を回復するためには、罪の問題を解決しなければなりません。ですから、神の子イエスは人として生まれ、人の罪を背負い十字架の上でご自分のいのちを犠牲とされたのです。そして、その死より三日目に復活されることによって、私たちの罪の問題を解決されました。神はイエスを救い主と信じる者の罪は赦されると聖書にあります。クリスチャンは罪が無い者ではなく、罪赦された者として、神に祈る特権を回復したのです。

もちろん、人は困ったときの神頼みで、誰でも神に祈ることが出来ます。しかし、その祈りは、漠然とした祈りで、だれに助けを求めて祈っているのかわからない祈りです。しかし、クリスチャンは、イエスの御名を通して父なる神に祈ります。そこには、神との人格的な交わりがあり、神への信頼があります。祈りとは、神に願い事を叶えていただくためにあるのではありません。祈りとは神と交わることであり、人は神の御心を知り、神の御心に従って歩むとき、神の助けを得、神の慰めを受けて、強められるのです。それゆえ、私たちの努力にかかわらず、神の御心に叶った祈りは聞き届けられ、神の御心に叶わない祈りは、どんなに私たちが熱心に祈っても、断食して祈っても叶えられることはありません。それゆえ、私たちが叶えられる祈りをするために、神に近づき、神の御心を知らなければなりません。そのために神が私たちに与えてくださったのが聖書なのです。

ペテロは、一夜にして枯れてしまったいちじくの木を見て驚きました。同じように驚く弟子たちにイエスは言われました。22節~25節「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい『立ち上がって海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈りもとめるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。』」ここでイエスは「信じること」と「疑わない」ことを強調しています。私たちは、現実や問題が大きく見える時、神の力が小さく見えます。いくら神でもこの問題は解決できないと考えてしまいます。しかし、神は全能であり、神にできないことはないと信じる時、神が大きく見え、問題は小さく見えます。私たちの信仰は、信仰と不信仰の間で絶えず揺れ動いてしまいます。そのような弱い私たちを強くしてくれるのが、神のことば(聖書)なのです。

また、恨みごとがあったら赦してやりなさいとあります。人を赦さないことは罪です。なぜなら、私たち自身の罪がイエス・キリストによって赦されているからです。主の祈りの中でも、このように唱えるように教えています。マタイの福音書6章12節「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。」また、14節15節「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」と言われました。神によって罪赦された者は、同じように人の罪を赦すことが神の御心なのです。それゆえ、罪赦された者として祈るとき、私たちの祈りは、神の御前にささげられることになるのです。

2、神からの権威と人からの権威(27節~33節)

27節から、イエスと祭司長たち、律法学者たち、長老たちとの論争が記されています。問題は、イエスが両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒し、宮で売り買いしている者たちを追い出されたことです。彼らはイエスに言いました。28節「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらの権威を授けたのですか。」祭司長や律法学者たちは、正規に学び、祭司や律法学者として認められた人たちです。しかし、イエスやバプテスマのヨハネは、正規に学んだ人ではありませんでした。それで、祭司長たちや律法学者たちは、イエスに対して、誰に学び、誰の権威によって人々に教えているのかと、問いただしたのです。イエスはここで、バプテスマのヨハネのことを引き合いに出しました。

29節30節「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」バプテスマのヨハネも正規に学んだ人ではありません。しかし、群衆は、彼のことを神から遣わされた預言者と信じていました。祭司長たち律法学者たち長老たちは、イエスのこの問いかけに対して、答えに窮してしまいました。なぜなら、彼らは、バプテスマのヨハネのことを神から遣わされた預言者と信じなかったからです。もしここで、彼のことを天から遣わされた預言者と認めるなら、なぜ、彼を信じなかったのかと言われてしまう。また、人から出たと言えば、群衆に何をされるかわからない。そこで彼らは、分かりませんと答えるしかなかったのです。そこで、イエスは彼らに言われました。33節「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」イエスは、神の権威によって人々を教えていましたが、バプテスマのヨハネのことも預言者と信じない祭司長や律法学者たちに、何を説明しても無駄であると感じて、このように言われたのです。祭司長や律法学者たちは、正規に学んだ人たちでした。それゆえ、人の知恵はたくさんあってもそれは、人からの知恵にすぎません。しかし、イエスは神から遣わされた方で、神の知恵に満ち、神から一切の権威が与えられた方でした。そのことは、イエスの奇蹟を通して証明されています。しかし、祭司長たちや律法学者たちは、自分たちの権威が上だとして、イエスの権威を認めなかったのです。

祈りもそうです。イエスが誰であるのか。誰からの権威が与えられているのかを信じることが大切です。イエスが人であり、祭司長や律法学者たちと同じように、人からの権威を授けられた人であるなら、イエスの十字架の死は無意味となり、復活もあり得ませんでした。イエスが神の子であり、神からの権威が与えられているからこそ、イエスの十字架の死は、すべての人の身代わりの死であり、三日目に復活されたことによって、私たちの罪の問題は解決されたのです。私たちはそのようなイエスの名によって祈るからこそ、父なる神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるのです。