神のわざが現われるため

「神のわざが現れるため」ヨハネの福音書9章1節~7節 2025年9月28日
私たちは生まれる時と場所、家族を選ぶことが出来ません。また、死ぬときも同じようにいつ死ぬのか、どのように死ぬのかを選ぶことは出来ません。たとえ自殺したとしても助かる場合もあります。神の存在を信じない者にとって誕生は偶然でしかありません。そこに何も意味を見出すことはできません。しかし、神の存在を信じるクリスチャンにとって、すべてが神のご意志であり計画であることを信じる時、そこに希望が生まれてくるのです。
1、生まれつきの盲人
ヨハネの福音書9章1節2節「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』」人が障がいをもって生まれたり、悲惨なことが続くと、その原因が何であるのか考えるものです。この盲人は生まれつきの盲人ですから、彼が罪を犯したとは考えられません。それゆえ、考えられることは、両親の罪か、先祖の罪かと考えます。旧約聖書でモーセに与えられた十戒の中に、出エジプト記20章5節「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」6節「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。日本においても禍は先祖の祟りかと考えます。弟子たちは、彼が盲目に生まれた原因を、彼の両親の罪か先祖の罪かと考えてイエスに問いかけたのです。しかし、イエスの答えは、私たちの想像を超える答えでした。3節「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです。』」「神のわざが現れる」とはどういう事でしょうか。この盲人について言えば、イエスが彼の目を開くことによって、イエスがただの預言者ではなく、神と同等の権威をお持ちの方であることを証明しました。また、旧約聖書のイザヤ書には、救い主によって盲人の目が開かれることが預言されています。彼は自分の目が開かれることによって、イエスが旧約聖書に約束されたメシヤ(救い主)である事を証明したということです。これが神のわざです。
2、シロアムの池に行って洗いなさい
6節7節「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、『行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」とあります。イエスはなぜ、唾で泥を作り、彼の目に塗りシロアムの池で洗いなさいと言われたのでしょうか。イエスは今まで、直接、手で触って病を癒していました。彼の目を開く時もその場で目を開くことが出来たでしょう。しかし、イエスはあえて彼にシロアムの池に行かせ目を洗わせたのです。そこには意味があると考えられます。彼の目に塗られた泥に意味があったのでしょうか。また、シロアムの池が病を癒す特別な働きがあったのでしょうか。そうとは考えられません。重要なのはシロアム(遣わされた者)の池に行きなさいという事ではないでしょうか。「遣わされた者」とはイエス・キリストを表しています。イエスがどこで彼に話しかけられたのか分かりませんが、シロアムの池のすぐ近くであるとは考えられません。それゆえ、彼はイエスのことばに従ってシロアムの池に歩いて行かなければ目は開かれません。盲人である彼がシロアムの池に歩いて行くという事は簡単な事ではなかったでしょう。それを考えると、彼はイエスのことばを信じて従うという信仰による歩みが必要となります。彼はイエスのことばを信じて、自らシロアムの池に向かい、目を洗ったからこそ彼の眼は開かれたのです。この事も、神のわざが現れるということではないでしょうか。
私は中学生の頃、幸いな人生とは何かを考えたことがあります。お金持ちになることなのか、有名になることなのか、答えはわかりませんでした。社会人に成り、とりあえずお金をためて会社を作り、成功した人生を歩みたいと夢見て東京にやってきました。それでも本当の幸せとは何かわかりませんでした。そんな中、教会に通うようになり真の神と出会いました。それまで、神の存在を否定はしてはいませんでしたが、神は遠くにおられ宇宙全体をみているようなそんな感じでした。しかし、聖書を学ぶうちに、神とは遠くにおられる神ではなく、私たちが望むなら近くにおられ、共に歩んでくださる神だと知りました。また、今まで自分の力で生きて来たと思っていましたが、実は、神が私に命を与え、神に生かされていたことを知りました。それだけではなく、私の罪の問題を解決するために、ひとり子であるイエス・キリストのいのちが十字架の上で取られた事。イエス・キリストが私の罪の身代わりとして苦しみを負われ、十字架でいのちを犠牲にされてことを知りました。私は神がそれほど私を愛しておられることを知り、その神の愛を信じて洗礼を受けました。実は、聖書にはイエス・キリストを神の子と(信じ)告白することによって救われると教えています。洗礼を受けなければ救われないとは教えていません。それでは、信仰告白をすれば洗礼を受けなくても良いのか。確かにそういう考えもあります。しかし、信じるとは、神の約束を信じて一歩前に踏み出すということです。先程の盲人についていわば、泥を塗られて目が開かれたわけではありません。彼がイエスのことばを信じてシロアムの池に行き目を洗ったから目が開かれ神の栄光を現わすことができたのです。洗礼とは、救われるための儀式ではなく、神の愛に応える信仰による行いです。イエス自身罪が無いのに私たちの見本として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、それが正しい行いであることを証しされました。
また、神は私たち一人一人に命を与えられました。私たちは偶然に生まれた者ではありません。神が私たちに命を与えられたという事は、私たち一人一人は神に愛されている存在だということです。また、神は私たち一人一人に幸いな計画を持っておられるという事です。先程、家族は自分で選ぶことは出来ないと言いました。神は私たち一人一人にふさわしい家族を与えてくださいました。たとえ問題がある家族であっても神の深い計画があります。私は自分の家族が嫌いでした。友達の家族を見てうらやましく思たこともあります。しかし、今は神様に感謝しています。その時はわからなくても、後になってその意味が分かる時があります。また、障がいを持って生まれることにも神の計画があります。レーナ・マリアさんは、生まれた時、両腕がなく左足が右足の半分の長さしかないという重度の障がいを持って生まれました。両親はどれほど驚いた事でしょう。しかし、両親はクリスチャンで彼女をそのままの姿で受け入れ、普通の子と同じように育てました。日本で生まれたとしたら、両親が失望して生まれてこなかったことにするか、部屋の奥に隠して人目に触れないようにするのではないでしょうか。しかし、彼女は両親の愛を受けて育ち、後にパラリンピックの水泳の選手にも選ばれました。また、現在はゴスペル歌手として世界中で演奏活動を行っています。両親が信仰を持っていなかったら、また、彼女が信仰を持っていなかったら、この家庭に希望はなかったでしょう。彼女が神様を信じて前に一歩一歩進むことによって、彼女の人生は祝福された人生となったのです。私たちも同じです。家族の問題や障がいがあることが問題ではありません。神の祝福を信じて前に歩むとき、神の祝福の扉は開かれるのです。幸いと思うか不幸と思うか、それはその人自身が感じることです。神に愛されている事、神に生かされていることを信じる者に、神は失望を与えることはありません。神は私たちを祝福するために命を与えられたからです。