神の子どもとされる特権

「神の子どもとされる特権」マタイの福音書7章7節~11節

神様は天地の創造主です。そして、私たち人間は神によって創られた被造物です。それゆえ、私たち人間は決して創造主である神様を父と呼ぶことが許されない者です。しかし、イエス様は弟子たちに祈りを教える時に、「天にいます私たちの父よ。」と呼びかけるように言われました。イエス様ご自身は本当の神の子ですから、神を父と呼ぶことは当然のことですが、弟子たちにも、神様を父と呼ぶように言われたのです。それは、イエス様を神の子と信じる者をも、神が子として受け入れてくださることの約束です。

マタイの福音書5章から7章はイエス様が山の上から群衆に語られた有名な説教で、山上の垂訓とか山上の説教と呼ばれる個所です。この説教の中でイエス様は三つの大切なことを私たちに教えています。

(1) ユダヤ教の律法(旧約聖書)の解釈の間違い。
イエス様が宣教された時代、ユダヤ教は完成され、律法学者、パリサイ人と呼ばれる人々が、神様の教えとして、律法を教えていました。しかし、彼らは、神様の戒めを守るために、自分たちが考え出した戒めを神様の戒めとして教え始めたため、旧約聖書に書かれた戒め以外の戒めが膨大に膨れ上がってしまい、民衆はそのすべての戒めを守ろうとして逆に、その戒めによって苦しめられていたのです。イエス様は彼らの苦しみを見て、律法学者たちの間違った解釈を改め、本来の神様の教えが何であるかを人々に教え始められたのです。群衆はイエス様の教えに喜んで耳を傾けました。しかし、律法学者、パリサイ人たちは、イエス様を憎み、イエス・キリストを殺さなければならないとまで考えるようになったのです。

(2) 祈りについて。
イエス様の時代、ユダヤ教には決められた祈りの時間がありました。彼らの祈りは、しだいに、人に見せるための祈りとなり、祈りの時間に人通りの多い所に立ち、立って神殿に向かって両手を上げて祈るようになりました。それは、自分がいかに信仰深いかを人に見せるためでした。イエス様は彼らの偽善を批判し、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられる父に祈りなさいと言われたのです。ユダヤ人たちは神を父と呼ぶことは絶対にありませんでした。それは、神に造られた人間が神を父と呼ぶことは、神を冒とくすることであり、それは、死刑にあたる大きな罪とされていたからです。イエス様は、神を父と呼び、弟子たちにも神様に対して父と呼びかけるように祈るように教えました。それゆえ、益々、律法学者たちは、イエス様を殺さなければならないと考えるようになったのです。

(3) 神様と人間の関係について。
ユダヤ人にとって、イスラエルの神は、あまりに偉大な神であり、決して親しく父と呼びかけることができるような存在ではありませんでした。神は偉大な神であり、唯一、崇むべきお方なのです。しかし、以前からそうではありませんでした。旧約聖書を読むなら、イスラエルの民は何度もイスラエルの神を裏切り、他の神々を自分たちの神として崇めました。しかし、彼らが他の国々から責められると、彼らはイスラエルの神様に助けを求めたのです。すると、神様は彼らを憐れみ、苦しみから助け出されました。しかし、最後には、ユダヤの国も、彼らの不信仰のゆえに国が滅ぼされてしまいました。南ユダ王国が滅ぼされたのが紀元前585年です。その後、彼らは悔い改め、旧約聖書を研究し、戒めを守ることに熱心になったのです。

神様にとって、ユダヤ民族はアブラハムの子孫として特別な民族でした。しかし、旧約聖書を見るなら、全ての人間は神にとって特別な存在であることがわかります。旧約聖書の一番初め、創世記の1章において、神様にとって人間が特別な存在であることがわかります。創世記1章26節~28節「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼らを創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」しかし、この特別な関係(特権)を失ったのは、人間の罪でした。私たちの先祖、アダムとエバは罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまったのです。

ユダヤ人はこの罪の問題を解決するために、神様の戒めを守ることに熱心になりました。しかし、イエス様はこの罪の問題を解決するために人として生まれてくださったのです。そして、自ら十字架の上で命を捨てることによって、私たちに、信仰による救い、神様との和解の道を備えてくださったのです。イエス様はご自分を通して神様との関係を回復する道を備えてくださいました。それゆえ、イエス様は弟子たちに、神様を父と呼んで祈るように教えられたのです。

私たちが神の子であるということはどういうことでしょうか。それは、私たちが自分で自分自身を養わなくても良いということです。マタイの福音書6章26節から、空の鳥を見なさいという有名な個所があります。ここで、イエス様が私たちに教えていることは、空の鳥や、野の草さえ養ってくださっているのだから、なおさら、父なる神様は私たちの必要を満たし養ってくださるということです。それゆえ、私たちは明日のことを心配しなくてもよいと教えておられるのです。

祈りとは神様との対話です。そこで、イエス様は、求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれますと言われました。なぜなら、私たちは神様を他人ではなく、父として祈ることが許されているからです。11節「してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物をあたえることを知っているのです。とすれば、どうして、求める者たちに良い物を下さらないことがありましょうか。」とある通りです。

キリスト教は神様と個人的に契約を結ぶ関係です。父が有名な牧師であろうと、両親が熱心なクリスチャンであろうと、個人的に神様を信じ、神様と契約を結ばない限り、神の子となることはできません。それは、私たち一人一人に罪があるからです。イエス・キリストはそのために十字架で死んでくださいました。そして、私たちに和解の道を備えてくださったのです。イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストを神の子、救い主と信じることです。神が私たちと和解するために備えてくださった方法が、神の子イエス様の死でした。神は、私たちの受ける刑罰をイエス・キリストの上に降らせたのです。そして、イエスを信じる者の罪は赦すと約束してくださいました。私たちが神様との親しい関係を回復する道はこの、イエス様の十字架の死と復活を信じる信仰以外にはありません。それには、ユダヤ人と異邦人、男性と女性の区別もありません。たとえ、幼い子どもであっても、イエス様を信じるなら、その罪は赦され、救いの恵みが与えられるのです。その素晴らしい道を神ご自身が私たちのために備えてくださったのです。