ホセア書1章1節~11節
旧約聖書に登場する預言者について学んでいます。最初に預言者サムエルについて学びました。旧約聖書に登場する預言者の使命は、未来のことを予言することではなく、神のことばを預かって人々に伝えることでした。たいていの場合、それは喜ばしいことばではなく、罪を指摘し悔い改めを求めることばでした。少年サムエルに最初に与えられた神のことばは、自分を育ててくれたエリの家の滅亡についての神の裁きのことばでした。サムエルはエリの命令もあり、神のことばを曲げることなく、正直に神による裁きのことばを祭司エリに伝えました。また、エレミヤは国が滅ぼされようとするときに、神のことばを伝えなければなりませんでした。それは、神によって助けられるという祝福のことばではなく、バビロニアに滅ぼされるという裁きのことばでした。当然、このことばを聞いた人々はエレミヤに反発し彼を牢獄に幽閉しました。エレミヤ自身もこのような神の裁きのことばを喜んで伝えたわけではありません。神のことばを預かる預言者として責任を持って人々に神のことばを伝えたのです。しかし、イスラエルの民はエレミヤのことばを聞いても、悔い改めることなく神の愛を拒み国を滅ぼしてしまったのです。
ホセアが預言者として活動したのは、前回学んだヨナの時代とほぼ同じ時代で、北イスラエル王国をヤロブアム二世が治めていた時代です。前回もお話ししましたが、この時代はアッシリアの力が弱くなり、北イスラエルの国が繁栄した時代でした。国が繫栄すると人々の心は豊かさを求めて神から離れ、悪が増大しました。宗教的にも偶像礼拝が盛んになり、人々は倫理的にも宗教的にも堕落した時代を迎えたのです。神は人々が神に背を向け、神から離れた時代に、ご自身の愛を人々に伝えるために、ホセアに姦淫の女性であるゴメルを娶るよう命じられたのです。2節「主はホセアに言われた。『行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。』」ホセアはゴメルを娶り、彼女は三人の子を産みました。一人目の子の名は「イズレエル」。それは北イスラエルの王エフーの家の滅びを預言する名でした。二人目の子の名は「ロ・ルハマ」。その意味は6節「わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さないからだ。」という神の怒りを表した名でした。三人目の子の名は「ロ・アンミ」。その意味は9節「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」これも神の怒りを表した名でした。しかし、10節11節を見ると神の祝福のことばになっています。ここに神の複雑な感情が現れています。10節11節「イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない。海の砂のようになる。『あなたがたはわたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは『生ける神の子ら』と言われる。ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。」10節と11節は未来に関する預言のことばを含んだものです。この繁栄がいつの時代を表しているかは、判断をするのが難しい箇所です。バビロン捕囚からの帰還を表すとする説もあれば、イエス・キリストによる救いを表すとする説もあります。
3章において神はホセアにこのように言われました。3章1節「主は私に言われた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子を、主が愛しているように。』」神はホセアに自分を裏切り出て行って身を持ち崩したゴメルを赦し、妻としてもう一度連れ戻すように命じました。それも、自分でお金を払って買い戻すように言われたのです。なんと辛い命令でしょうか。しかし、ホセアは神のことばに従い彼女を買戻し、やさしいことばをかけました。2節3節「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私もあなたにとどまろう。』」神はこの出来事を通して、自分を裏切り偶像に依り頼むイスラエルの民を赦し、それでも彼らを愛し自分の所に戻ってくることを願っている神の愛を表そうとされたのです。ホセアはどのような気持ちでゴメルを迎えたのでしょうか。また、彼はイスラエルの民に対する神の愛を理解したのでしょうか。神はホセアを通して、人々に偶像礼拝から立ち返り、もう一度自分の所に戻るようにメッセージを与えました。しかし、人々は神の愛に気が付きませんでした。彼らは豊かな生活に満足し神に立ち返ることを拒んだのです。それゆえ、北イスラエルはアッシリアに、南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされてしまったのです。
また、このホセアに与えられた神のことばは、現代の私たちに与えられたことばでもあります。今、神はホセアではなく、イエス・キリストを通して、同じメッセージを私たちに与えています。神は私たちの罪の問題を解決するために、ひとり子イエス・キリストを人として遣わし、十字架の上で私たちの罪の身代わりとしていのちを取られました。イエス・キリストは一度も罪を犯さなかったのに、私たちの罪の身代わりとして十字架の上でいのちを犠牲にされました。どちらも、私たちに神の愛と赦しを表した行為です。私たちはこのイエス・キリストの十字架の死と復活をどのように受け止めるべきでしょうか。ある人はそれを二千年前の出来事として受け止るが、自分との関係は認めません。しかし、私たちキリスト者は、キリストの死と復活は、自分の罪の身代わりであり、私たちの罪が赦されたことの証拠と信じています。私たちとキリストの十字架の死を結びつけるのは「罪の自覚」です。自分の罪を認める者にとって、キリストの死は自分の罪の赦しを表しますが、罪を認めない人にとっては、キリストの死は昔のことでしかありません。救いは、自分の罪を認め、救いを求める人に与えられる神の恵みです。旧約聖書の時代、神はホセアを通して、ご自身の赦しと愛をイスラエルの民に伝えました。新約聖書においては、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちに神の愛と罪の赦しが伝えられました。私たちはその神からのメッセージに対してどのように応えるべきでしょうか。