神の愛と私たちの信仰

マラキ書1章1節~9節

旧約聖書に登場する預言者について学んできました。今回、このマラキを最後の預言者として学んで終わろうと思いましたが、マラキ書全体を通して調べてもマラキについて多くのことが書かれていないので、マラキがどのような人物であるかを特定することができませんでした。マラキ書全体に書かれていることは、当時の神とイスラエルの民の関係について、また、神と祭司との関係について書かれているだけです。マラキはその神とイスラエルの民の仲介者のような立場で、彼の意見や考えは一切書かれていません。そこで、今回はマラキ書を一章ずつ学んで行きながら、神のことばに耳を傾けたいと思います。

1、神の愛の宣告

「マラキ」という名前の意味は「わたしの使者」です。このマラキに与えられた神のことばが1節「わたしはあなたがたを愛している。」でした。しかし、それを聞いたイスラエルの民の反応は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか。」という冷たい態度でした。マラキが神のことばを伝えた時代は、イスラエルの民が捕囚から許され、彼らが苦労して神殿を再建した時代から百年ほどたった後の時代だと考えられます。国は再建され神殿も再建されましたが、彼らの生活は貧しく、一部の金持ちだけが豊かな生活をする不平等な社会でした。彼らは喜んで国に帰り、神殿を立て直しましたが、期待したような幸いな生活にはなりませんでした。そこで彼らは信仰を失い、神に背を向けて自分中心な生き方を選ぶようになったのです。一般的に神の祝福と考えられるのは経済的な豊かさです。それゆえ、人々はご利益を求めて神を自ら選び礼拝するようになります。祝福を与えない神には興味がなく、人々はよりご利益のあると思う神々を選ぶようになります。イスラエルの民は神の祝福を期待し神殿を再建しましたが、彼らの生活は豊かになりませんでした。そこで彼らは神に裏切られたような気持ちで、神から離れて行ってしまったのです。

2、神の選びの祝福

神は、イスラエルの民のことばに対して「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主のことばーーしかし、わたしはヤコブを愛した。」と言われました。エサウとヤコブの誕生については、創世記の25章21節から26節にあります。ここで二人が生まれる前に、次のような神のことばが母リベカに与えられました。創世記25章23節「すると主は彼女に言われた。『二つの国民があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。』そして生まれたのが兄エサウ、弟ヤコブです。この後、二人は成長し兄エサウは巧みな狩人、野の人となり、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んだとあります。父イサクは兄エサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。二人が生まれる前から神の選びは弟のヤコブでした。しかし、父イサクは狩りが巧みな兄エサウに後継者としての祝福の祈りを授けようとしました。それを知った母リベカはヤコブに兄に成りすまして父より祝福の祈りを奪うように命じたのです。ヤコブは兄に成りすまして父より祝福を受けました。それを知った兄のエサウは怒り、ヤコブを殺そうと考えたのです。それを知った母リベカはヤコブを助けるために兄のラバンの許にヤコブを送り出しました。その後、エサウは山地に移り住みエドム人の先祖となりました。3節4節「わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした。たとえエドムが、『私たちが打ち砕かれたが、廃墟を建て直そう』と言っても、――万軍の主は言われる――彼らが建てても、わたしが壊す。彼らは悪の領地と呼ばれ、主がとこしえに憤りを向ける民と呼ばれる。」ここに神の選びの祝福があります。エサウが長男でしたが、神の選びの祝福は弟のヤコブでした。この事は神の一方的な恵みであり、二人の功績による選びではありません。私たちの救いについても同じことがいえます。私たちの救いも私たちの良い行いによるのではなく、神の恵みとして与えられるものです。神の祝福は経済的な祝福ではなく、神が共におられることによる祝福です。イスラエルの民はそれを理解することができなかったのです。

3、献げものについての罪

 6節「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこにわたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこにわたしへの恐れがあるのか。」神はここでマラキを通してイスラエルの民の、神への信仰と尊敬について問いただしました。神がその対象としたのが「祭司たち」です。6節「あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。」とあります。それを聞いた祭司たちはこのように答えました。「どのようにして、あなたの名を蔑みましたか。」祭儀が形式となり信仰が伴わない働きになると、神への尊敬も恐れもなくなってしまいます。神は彼らに言いました。7節8節「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。」イエスの時代には、厳格に祭司によって献げものが調べられましたので、当時の人々は、あらかじめ祭司によって選ばれたものを金で買って献げていました。マラキの時代は、献げる人もいい加減なら、祭司たちもいい加減で、傷のある動物でも平気で献げていたのでしょう。祭壇が再建され、祭司たちによって生贄が献げられるようになりました。初めは人々も喜んで献げていましたが、次第に形式的となり、形だけの礼拝になってしまったのです。

ここまでマラキを通してイスラエルの民に語られた神のことばに目を留めてきました。しかし、そのことは彼らだけではなく、私たちも陥りやすい罪ではないでしょうか。教会に来始めの頃は喜んで礼拝に出ますが、何年も経つうちに、喜びが無くなり、形だけで礼拝や献金を献げていないでしょうか。神の祝福は経済的な豊かさでは測れないものです。貧しくても豊かでも神が共におられることが神の祝福です。また、罪を犯して神から退けられた私たちが神の子とされたのは、イエス・キリストの贖い(十字架の死と復活)の故です。これに勝る祝福があるでしょうか。この世の物はすべてこの世の物でしかありません。死んだ者には役に立ちません。私たちは裸で生まれ、裸で神の前に立つことになります。唯一、私たちの幸いはイエス・キリストによる救いだけです。神はその救いを私たちにただで与えてくださいました。これ以上の恵みがあるでしょうか。それゆえに、私たちは神に感謝し礼拝をささげ、献金をささげるのです。