創世記45章4節~8節
創世記の学びも今日で終わりになります。今日は、ヨセフの人生を通して、「神の摂理と神の赦し」について学びます。
1、ヤコブ家の家族関係
ヨセフは兄弟たちに憎まれ、エジプトに行く商人に売られてしまいました。なぜそのような不幸な出来事が起こったのでしょうか。この出来事が起きた、根本的な原因は父ヤコブの夫婦関係(家庭環境)に原因がありました。ヤコブは、兄エサウの怒りを避けて、叔父のラバンの家に身を寄せました。彼はここで、ラケルという美しい女性と出会い、彼女と結婚する条件で、叔父ラバンのもとで7年間働くことを約束しました。7年後、ラバンは夜、姉のレアをヤコブの部屋に送りました。朝になって、ヤコブはラバンが妹のラケルではなく、姉のレアを送ったことを知り、ラバンに抗議しました。しかし、この村では、姉よりも先に妹を嫁がせることはない、妹が欲しければ、姉と妹の二人と結婚しなければならない。そして、そのためにもう7年働くように言われたのです。ヤコブはラケルを愛していたので、姉と妹と結婚し、二人のために14年間ラバンのもとで働かされたのです。
さらに、姉のレアは身ごもり、ルベン、シメオン、レビ、ユダを産みました。しかし、ラケルは子を産むことができませんでした。そこで、彼女は自分の女奴隷ビルハを夫に妻として与えました。ビルハはダンとナフタリを産みました。姉のレアも妹に対抗して、自分の女奴隷ジルパをヤコブに与え、彼女はガド、アシェルを産みました。また。レアは、イッサカル、ゼブルンを産みました。ラケル自身はヨセフを産み、最後にベニヤミンを産んで亡くなりました。その結果、ヤコブは四人の妻を持ち、母親の違う12人の子を得ました。しかし、ヤコブは、ラケルを愛し彼女の子ヨセフを特別に愛しました。それゆえ、他の兄弟たちは、ヨセフを憎み、彼を商人に売り渡したのです。
2、ヨセフの苦しみと栄光
ヨセフは、エジプトの王ファラオの廷臣で侍従長のポティファルに売られました。ヨセフは、一生懸命働き主人に信頼されるようになりました。しかし、主人の奥さんがヨセフに目を付け彼に言い寄りました。ヨセフは何度も彼女から逃げましたが、最後に、主人の妻はヨセフが自分にいたずらをしようと部屋に入って来たと偽りを夫に言いつけたのです。主人の怒りを受けたヨセフは投獄されてしまいました。しかし、監獄でもヨセフは監獄の長に認められ、監獄の囚人を管理する者となりました。その監獄に、エジプトの王に過ちを犯した献酌官と料理官が送られてきたのです。ほどなくして二人は不思議な夢を見ました。ヨセフは二人からその夢の話を聞き、その意味を解き明かしました。その後、二人はヨセフのことば通り、三日後に献酌官は釈放され、料理官は殺されてしまいました。しかし、献酌官はヨセフのことを忘れてしまったのです。
それから、二年後、エジプトの王ファラオも不思議な夢を見ました。ファラオは不安に思い、この夢の意味を解き明かす者を求めました。その時、先の献酌官はヨセフのことを思い出し、彼を監獄から助け出し、エジプトの王の前に立たせたのです。ヨセフは、エジプトの王の夢を聞き、それが、エジプトに起こる七年間の豊作と、その後に起こる、七年間の飢饉であることを解き明かしました。エジプトの王は、ヨセフの知恵に驚き、彼をエジプトの王の次の位(総理大臣)の地位に任命し、飢饉に備えさせたのです。
3、ヨセフと兄弟の和解
ヨセフのことば通り、エジプトは七年間の豊作を迎え、たくさん食料を蓄えました。それから、飢饉の時を迎えました。世界中に食べ物が無くなりましたが、エジプトにはヨセフの働きのゆえに、たくさんのたくわえがありました。そこで、人々は食べ物を求めて、エジプトへと集まって来ました。ヤコブの子どもたちも、食べ物を求めてエジプトへとやって来ました。ヨセフは、兄弟たちと再会しますが、兄弟たちはヨセフであることに気が付きませんでした。また、その時には末の弟ベニヤミンは彼らと共にいませんでした。ヨセフは、兄弟たちに末の弟を連れてくるように強く命じました。家に帰った兄弟たちはこのことを父ヤコブに伝えましたが、ヨセフを失ったヤコブは末の息子ベニヤミンをエジプトに連れて行くことを強く反対しました。しかし、食べ物も尽きて、再びエジプトに食べ物を買いに出かけなければならなくなりました。兄弟たちはベニヤミンを連れてでなければエジプトに行けないと父に主張しましたが、父ヤコブは聞き入れませんでした。しかし、ユダが自分が責任を持ってベニヤミンを連れ帰すと約束したので、ヤコブはしぶしベニヤミンを兄弟と共にエジプトに送り出したのです。ヨセフは自分と同じ母の子であるベニヤミンをみて心の中で喜びました。また、ヨセフはベニヤミンを自分のところに置くために、彼の袋の中に自分の杯を忍ばせ、兄弟と共に家に送り出したのです。しかし、彼は、すぐに追っ手を送り、彼らが自分の杯を盗んだと言いがかりをつけ、彼らを連れ戻しました。そして、彼らの荷物を点検させ、ベニヤミンの荷物から杯を見つけさせたのです。そこで、ヨセフはベニヤミンを置いて家に帰るように兄弟たちに命じました。すると、ユダが進み出て、ベニヤミンの代わりに自分をエジプトに残すように願い出たのです。それは、父との約束を果たすためでした。ヨセフは、自分を商人に売ったユダがベニヤミンを助けるために、自分を身代わりにと申し出た、ユダの姿に感動して、自分が弟のヨセフであることを明かしたのです。
4、神の摂理と神の赦し
ヨセフはなぜ、兄弟たちを赦すことができたのでしょうか。ヨセフは兄弟たちにこのように告げました。創世記45章5節「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなた方より先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」8節「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。」ヨセフは初め、兄弟を恨んだことでしょう。しかし、彼は様々な出来事を通して、自分がエジプトの総理大臣に成れたのは、すべて、神の計画であることを知ったのです。また、自分はそのために、エジプトに売られたこと、投獄されたことも神の働きであったと理解したのです。それゆえ、確かに、兄弟たちによって商人に売られましたが、それも、神様の計画であったとすべてを神の働きとして受け入れたのです。神の存在を認めない人にとって、苦しみも幸いも偶然でしかありません。しかし、神を信じる者にとって、幸いも苦しみも神のご計画の中にあることです。それゆえ、私たちは、苦しみの時にも希望を失うことはありません。なぜなら、神は万事を益に変えてくださるお方であることを信じているからです。神は、私たちに幸いも苦しみも与えられます。しかし、神が下さる苦しみには意味があり、終わりがあります。ヨセフの場合、兄弟たちに売られ、奴隷とされ、投獄されました。しかし、神の定めた時に、ヨセフは監獄から助け出され、エジプトの総理大臣に任命されたのです。神の愛を信じる者にとって希望を失うことはありません。なぜなら、神の愛が私たちにそそがれているからです。
5、神の愛と赦しについて
イエスが弟子たちに教えられた主の祈りの中に、マタイの福音書6章12節「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します。」とあります。また、14節「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」15節「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」と言われました。なぜ、私たちは人を赦さなければならないのでしょうか。それは、憎しみは何も良いものを生み出さないからです。また、憎しみに縛られて生きることは決して幸いではないからです。もう一つは、私たち自身が神によって罪が赦されているからです。イエスのたとえ話に、王様に一万タラント(数百兆円)の借金を赦された人が、百デナリ(百万円)の借金をした人を赦さなかったゆえに、投獄された話があります。(マタイの福音書18章23節~34節)私たちはどれほど多くの罪をイエス・キリストの十字架によって赦されたでしょうか。それを考える時、私たちもまた、人を赦していくことが神の御心であることを知るのです。赦すとは、忘れるとか、思い出さない、口に出さないと言うことではありません。聖書で教える「赦す」とは、相手を愛することです。自分に危害を加えた者を、愛することができるでしょうか。感情ではそれはできません。それゆえ、自分の意志で、相手を赦すと誓うことです。感情では、人を赦すこと、敵を愛することはできません。しかし、私たちが神に赦された者、愛されている者であることが分かる時、私たちは感情ではなく、自分の意志によって、人を赦し、敵愛することができるのです。