神を父と呼ぶ信仰

「神を父と呼ぶ信仰」マタイの福音書6章24節~34節

旧約聖書において、神を父と呼んだ人物は誰も存在しません。アブラハムやモーセですら神様を父とは呼んでいません。新約聖書に入って、マタイの福音書6章9節において、イエス様は弟子たち(群衆)に向かって、祈りを教える時、9節「天にいます私たちの父よ。」と呼びかけるように教えられました。弟子たちはこのことばを聞いて驚いたのではないでしょうか。罪人である人間が天地を創造された神を父と呼ぶことができるだろうか。また、イエス様自身が神様を父と呼ぶことに抵抗はなくても、イエス様が弟子たちにも「神を父」と呼ぶように言われたことは、弟子たちにとって、信じがたいことであったのではないでしょうか。私たち罪人が、天におられる神様を父と呼ぶことができる根拠はどこにあるのでしょうか。12使徒のヨハネは、ヨハネの福音書でこのように教えています。ヨハネの福音書1章12節「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」私たちが神を父と呼ぶことができるのは、「イエス・キリスト」によってです。イエス・キリストを神の子と受け入れた人々。また、イエス様を神の子と信じた人々です。その人々には、神の子とされる特権を与えると神ご自身が約束して下さったからです。

マタイの福音書5章から7章は、昔から「山上の垂訓」と呼ばれる有名な個所です。イエス様はこの個所で、ユダヤ教とご自分の教えの違いについて説教されました。マタイの福音書5章21節から26節までは、十戒の「殺してはならない」について。また、27節28節では「姦淫」の罪について。33節~37節には「偽りの誓い」について。また。38節から42節には「目には目で、歯には歯で」について、ご自分の意見を述べています。また、6章では「施し」「祈り」「断食」について述べています。また、マタイの福音書6章の最後に有名なことば、34節「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分にあります。」があります。私たちは、あすのことだけではなく、1年先、10年先、老後の生活について心配する者です。しかし、イエス様は、一日の苦労は、その日その日にあるので、先のことは心配しないで、その日その日を一生懸命に生きなさいと言われました。どうして、私たちは、先のことを心配しないでも良いとイエス様は言われたのでしょうか。(1)私たちは、先のことがどうなるかわからないから。わからないことまで心配しても、どうにもならないからです。(2)神様が私たちの父で、父が私たちを愛し、最善のものを与えてくださるからです。イエス様は私たちのことを、「空の鳥」「野の草」よりも大切な者として養ってくださることを教えています。

しかし、問題は、私たちが本当に、創造主なる神様を心から自分の父と信じることができるかどうかです。私は洗礼を受けて半年ほど、神様を父として信じることはできませんでした。神様の存在、神様が確かにおられることは信じましたが、神は、遠い宇宙の果てにおられ、私たちの生活には関心のない神、特に、私のことなど見てもおられない神様だと感じていました。しかし、聖書によると、神様は私たちの髪の毛の数さえも知っておられ、私たちの人生に介入されるお方だと記されています。しかし、私はその言葉をも素直に受け入れることは出来ませんでした。そんな私が、神様のことを心から父と呼ぶことができるようになったのは、洗礼を受けて一年後に、一人で伝道訓練を受けるために、香港と中国で4カ月の生活を体験したからでした。外国の地で、頼る人もなく、ただ神様に祈るしかありませんでした。しかし、その結果、神様が私の祈りに耳を傾け、私の祈りに応えてくださる神様であることを学ぶことができました。神様は遠くにおられ、私たちの生活に無関心な神ではなく、私たちのことを気にかけ、苦しみの時には、助け、慰めてくださる神様であることを体験を通して学ぶことができました。救いは神様の約束で、私たちが何か特別な体験が必要なわけではありません。しかし、神様との関係においては、神様との個人的な関係が必要です。親が牧師やクリスチャンであっても、神様を個人的に求め、神様から助けられた経験が無ければ、父の神であり、他人の神様です。自分の神とはなりえません。

マタイの福音書6章24節に「だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また、富にも仕えるということはできません。」とイエス様は言われました。イースター礼拝の時に、お金持ちの青年のお話をいたしました。イエス様は彼に、マタイの福音書19章21節で「もし、あなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、彼はイエス様の前から去って行きました。彼は多くの財産を持っていたからです。また、イエス様は、お金持ちが天の御国に入るのは、らくだが針の穴に入るよりも難しいと言われました。それは、多くの財産を持つ者は目に見える財産に頼り、目に見えない神様に頼ることができないからです。私たちもその傾向があるのではないでしょうか。財産だけではなく、目に見える人、目に見える権威や権力に頼る人。目に見えない神様に頼るためには、神様に対する信仰が無ければ、神様に頼ることは出来ません。信仰とは、神様に対する信頼です。神様は決して自分を捨てることなく、必ず助けてくださるという信仰。それは、普段からの神様との親しい関係がなければできないことです。マタイの福音書7章7節から有名なことばがあります。7節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』8節「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」何故でしょうか。その理由は、9節~11節「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うときに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」とあります。神が求める者に応える、その理由は、天の父が私たちの父だからです。天の神様が私たちの父であることは、私たちの正しさや、良い人格の故ではありません。ただ、イエスを神の子と信じる信仰によってのみです。神が、イエスを神の子と信じる者に、神の子となる特権を与えてくださったからです。苦しみの時、悲しもの時、問題がある時こそ、神様を身近に感じる時です。目に見える物に頼りがちな私たちですが、目には見えませんが、私たちを子として心配してくださる神様に頼る時、本当に、神様の約束は真実であることを、体験することができるのです。