「神様の性質・三位一体(3)聖霊なる神」ヨハネの福音書14章16節17節
神様の特別な性質、三位一体について、父なる神と子なるキリストについて学びました。今日は、聖霊なる神について学びます。聖霊は、別の呼び方で、助け主、慰め主、真理の御霊とも呼ばれています。三位一体を信じないエホバの証人の人たちは、聖霊を神の力と理解し、人格を認めません。しかし、マタイの福音書28章19節で、イエス様は「父、子、聖霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授けなさい。」と命令されています。聖霊が神の力であるなら、父と子と同等に扱うはずがありません。イエス様は聖霊が、父なる神と子なるキリストと同等のお方だからこそ、三人の神の御名によって洗礼を授けるように命じられたのです。
1.父なる神様の約束を待つ。
新約聖書では、ヨハネの福音書の次に使徒の働きが続いています。福音書(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)の中心はイエス・キリストでした。その、イエス様の働きを引き継いだのが、弟子たちです。弟子たちによって教会が始められ、世界宣教へと教会の働きは広げられていきました。それゆえ、使徒の働きと題名が付けられています。しかし、実は、使徒たちの働きは、弟子たちの知恵と力だけでなされたものではありませんでした。ペテロがあれほど、大胆に多くの群衆の前で説教ができたのは、聖霊の働きによるものでした。また、パウロによる世界宣教も、パウロを世界宣教へと導いたのは、聖霊の働きによるものでした。それゆえ、使徒の働きではなく、聖霊の働きと題名を変えるべきだと主張する学者がいるほどです。弟子たちは、イエス様の働きを担うために、聖霊が各自に降るのを待たなければならなかったのです。
2.聖霊の役割、助け主。
神は唯一ですが、その一つの神の中に、父と子と聖霊という三つの人格が調和して存在しています。それを三位一体と言います。そして、その三つの人格にはそれぞれ、役割と働きに違いがあります。父なる神は創造主。子なるキリストは救い主、聖霊なる神は助け主。助け主のギリシャ語の言葉は、パラクレトスで、「援助のためにそばに呼ばれた者」という意味があります。旧約聖書においても、神の霊が特別に降ったということはありました。しかし、それは、ある目的のためで、継続して神の霊がその人と共にいたわけではありません。イスラエルの国の一番初めの王様サウルにも神の霊は下りましたが、後に、彼は自分の罪のゆえに、神の霊が去られたとあります。しかし、新約聖書における、聖霊の働きは、永遠に続きます。ヨハネの福音書16節でイエス様はこのように言われました。「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」聖霊は、私たちがイエス・キリストを神の子と信じたその時から、私たちが天に召されるときまで共にいてくださるお方です。
また、聖霊は助け主ですから、私たちを強制して神様の御心に従わせるわけではありません。エペソ人への手紙4章30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません。」という言葉があります。その意味は、聖霊が私たちと同じ人格を持ち悲しみを感じられるお方であることを表していますが、もう一つは、聖霊は、私たちを神様の御心に導きますが、強制的に、また、私たちの意思に反して、御心に従わせるわけではないということです。聖霊は、私たちが、御心に従わないとき、悲しまれ、私たちが自分の罪に気付き、悔い改めて神様のもとに帰ることを忍耐を持って待っていてくださるお方なのです。
3.聖霊の役割、人に罪を教える。
ヨハネの福音書16章8節「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とあります。人は自分の力では、自分の罪の重さを理解することはできません。自分の罪が神様によってさばかれ、天の御国に入れないほどの大きな罪があると自覚するのは、聖霊の力がなければだれも理解することはできないのです。そういう意味では、聖霊によらなければだれも、イエスを神の子と告白できないという言葉は真実です。洗礼の準備会で必ず確認するのが罪の自覚です。自分の罪の大きさがわからないとイエス様の救いの意味がわからないからです。私たちは罪人であって、イエス様の救いを必要とする者なのかどうか、この点をはっきり理解できなければ洗礼を受けることができません。そういう意味で、聖霊の働きなしで、救われる人は誰もいないということです。
4.聖霊を冒瀆する罪について。
マタイの福音書12章31節32節に「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」とあります。よくこの個所から、聖霊に逆らう罪とはどのようなことですかと質問を受けることがあります。イエス様がこのことを言われたのはその前の、22節の出来事から言われたことばです。22節でイエス様は悪霊につかれ、目も見えず、口もきけない人をいやされました。その神様の御業を見て、群衆はみな驚いて「この人は、ダビデの子(救い主)なのだろうか。」と言ったとあります。その群衆のことばを聞いて、パリサイ人は群衆に言いました。24節「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」このパリサイ人のイエス様への批判を聞いてイエス様は先ほどの、31節32節の言葉を言われたのです。そう考えると、イエス様が言われた、聖霊に逆らう罪(冒瀆)とは、神様の働き(御業)を悪霊の働きとののしる者はだれであっても赦されないということです。
5.結論。
イエス様は十字架に付けられ殺されましたが、三日目に復活され、弟子たちから離れ、天の父のもとに昇って行かれました。しかし、イエス様は、ひ弱な弟子たちをただ、この地上に残したわけではありません。ご自分の代わりとして、助け主聖霊を遣わしてくださいました。聖霊を受けた弟子たちの変化は驚くべきものでした。その、同じ聖霊が私たちに与えられているのです。私たちは聖霊の姿をこの目で見ることはできませんが、神様の約束として、私たち一人一人にすでに与えられています。また、聖霊は私たちを神様の御心に導きますが、私たちの心が頑なで、従えなくても、私たちを罰したり、捨て去ることはありません。聖霊は、私たちが悔い改め、神の御心に従うまで、悲しみながら待ち望んでくださるお方です。願わくば、聖霊を悲しませることなく、神様の御心に素直に従う者になりたいと思います。