自分の罪を認める幸い

マルコの福音書7章24節~30節

1、人を汚すもの(1節~23節)

マルコの福音書7章1節から23節まで、律法学者たちとイエスのきよめについての議論が記されています。パリサイ人たちは昔の人々の言い伝えに従って、手を洗ってからでなければ食事をしませんでした。また、市場から帰った時は、体をきよめてからでなければ食べたりしませんでした。その他、銅器や寝台を洗いきよめるなど、たくさんのきよめについての戒めを守っていました。しかし、イエスの弟子の中のある者たちが洗わない手でパンを食べているのを見て、彼らは弟子たちを咎めました。イエスはイザヤ書29章13節の御ことばを通して、彼らが「人間の命令を、教えてして教えているのだから。」と、彼らが守っている戒めは、神の戒めではなく、人間が教えであることを指摘しました。また、彼らが人間の戒めを守るために、神の戒めをないがしろにしていると彼らの行いを批判しました。また、イエスは弟子たちに、食べ物が人を汚すのではなく、人から出てくるもの「悪い考え、淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」が人の内側から出て、人を汚すと弟子たちに教えられました。

2、ギリシアの女性とイエス(24節~30節)

 24節「イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられが、隠れていることはできなかった。」とあります。ツロはガリラヤ湖から北に約60キロの地にあります。イエスは律法学者たちとの対立を避けるため、また休息のためにツロに行かれたものと考えられます。しかし、イエスのうわさはこの地方にも伝わっており、イエスのうわさを聞いて、一人の女性がイエスに助けを求めて来ました。25節「ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。」とあります。26節「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。」とあります。27節「するとイエスは言われた。『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのは良くないことです。』」イエスがここで言われた「子どもたち」とは、ユダヤ人を指しています。また、「子犬」とは、異邦人「ユダヤ人以外の民族」を指しています。イエス様は、神の救いの計画は、ユダヤ人を優先すべきであり、今はまだ異邦人であるあなたには向けられていないと言われたのです。マタイの福音書15章では、彼女はイエスに「主よ、ダビデの子よ。」と呼びかけています。イエスは彼女の信仰を試すために、あえて冷たい態度を取られたものと考えられます。28節「彼女は答えた。『主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。』」彼女は、自分が異邦人で神の恵みを受けるのに、ふさわしくない者であることを認め、それでもイエスに憐れみを求めました。29節「そこでイエスは言われた。『そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』」マタイの福音書では、イエスはこのように言われました。マタイの福音書15章28節「そのとき、イエスは彼女に答えられた。『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐに癒された。」とあります。彼女は自分が異邦人で神の恵みを受けるのにふさわしくない者であることを認めました。それが「食卓の下の子犬でも子どもたちのパン屑はいただきます。」ということばに表されています。イエスは彼女が自分のことを小犬に等しい者(神の恵みを受けるのにふさわしくない者)であることを謙遜に受け留め、それでもイエスに憐れみを求めた彼女の謙遜な信仰を褒めたのです。

私たちは自分自身が罪人であることを素直に認めることが出来ない者です。神は創世記2章17節「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。しかし、創世記3章で、エバは蛇の誘惑に負けて、善悪の木の実を取って食べ、夫にも与え彼もその実を食べました。しかし、二人はすぐには死にませんでした。また、神の前に二人の罪が明らかにされたとき、アダムは神に対してこのように言い訳をしました。12節「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木からと取って私にくれたので、私は食べたのです。」彼は自分の罪を認めることなく、神と女に責任を転嫁させました。彼の言う事は間違いではありませんが、彼に責任がある事は明らかです。また、女(エバ)は13節「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」確かに蛇が彼女(エバ)を惑わしたのですが、彼女に責任があります。もし、二人がこの時に、自分の罪を認めていたら、この後の聖書の世界は変わっていたかもしれません。しかし、私たちも彼らを愚か者と断罪することはできません。私たちも自分の罪を素直に認めることが出来ず、家族や周りの人や社会に責任転嫁していないでしょうか。私自身も教会に来る前、自分の罪について考えたことはありませんでした。罪が無いとは思いませんでしたが、人に迷惑を掛けないように正しく生きてきたたつもりでした。それゆえ、教会に来て、あなたの罪がイエス・キリストを十字架に付けて殺したと言われたとき、反発を感じました。しかし、その後、聖書を読み、礼拝で聖書の話を聞くうちに、罪とは法律で裁かれる罪だけではなく、神の前に罪があるか無いかを問われたとき、確かに、見えない罪がたくさんあったことを認めざるを得ませんでした。

罪を認めるということは、裁きを受けるという事ではありません。聖書は私たちが罪を認め悔い改めるなら、すべての罪が赦されると教えています。キリスト教において罪を認めるとは、神に裁かれるという事ではありません。私たちが自分の罪を認める時、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪が赦されるという、神の恵みを受けるということです。イエスを神の子と信じない者にとって、終わりの日の審判は神の裁きでしかありません。しかし、そんな罪人である私たちの罪をすべて、引き受けてイエス・キリストは十字架の上でいのちを犠牲にしてくださいました。そのイエスの十字架の贖いによって、すべての罪は赦されると聖書は私たちに教えています。ツロの女性は、自分が異邦人(神の恵みを受けることが出来ない民族)であることを認め、それでもイエスに憐れみを求めました。イエスはその彼女の謙遜な信仰を受け入れました。私たちも神の前に、謙遜に自分の罪を認めるなら、イエスの十字架の憐れみによって罪の赦し、救いが与えられるのです。神は正しい審判者です。それゆえ、罪人を正しく裁かなければなりません。しかし、それと同時に神は愛の神です。人が滅ぼされるのをそのままにすることができませんでした。それゆえ、神はひとり子イエスを私たちの罪の身代わりとされたのです。私たちに求められるのは、謙遜に自分の罪を認め、神に助けを求めることです。神はすでに、十字架のイエスの死によって私たちの罪の問題を解決してくださいました。私たちは、神の裁きを怖れることなく、自分の罪を認めて神の前に出るなら、あのイエスのたとえ話の「放蕩息子を迎える父親のように」神は喜んで罪人である私たちを迎えてくださるのです。