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イザヤ書53章1節~12節
エリヤ、エリシャを力の預言者と呼びます。また、それ以降に登場する預言者をことばの預言者と呼び区別することがあります。その代表的な人物がイザヤです。実際にエリヤ、エリシャは奇跡を行い、国を救い神の栄光を表しました。この二人以降の預言者は、神のことばを預かり、神の裁きを伝え、人々に悔い改めを求めるメッセージを伝えました。また、将来への希望のことばをも伝えています。その中でも、イザヤは救い主メシアについて具体的に伝えている点が他の預言者と大きく違う点です。
1、預言者イザヤについて
イザヤ書1章1節に、「アモツの子イザヤの幻、これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」とあります。アモツについて聖書には詳しい記述はありませんが、伝承によればユダの王アマツヤの兄弟であったと言われています。そうすると、イザヤはウジヤ王のいとこにあたります。それゆえ彼は王に直接進言したり、王宮に出入りできる貴族階級の身分であった思われます。時代は、アッシリヤが台頭し、北イスラエル王国はBC722年に滅ぼされてしまいました。さらに、アッシリヤは南ユダ王国にも迫ってきました。南ではエジプトの力が大きくなり、二つの大国に挟まれて、南ユダ王国は危険な状態でした。ヒゼキヤが王の時代にエルサレムがアッシリヤに包囲された時、多くの家臣がエジプトに助けを求めるべきだと考えました。しかし、ここでヒゼキヤはイザヤに意見を求めました。その時、イザヤはエルサレムが滅ぼされることはないと神のことばを伝えました。その言葉通りアッシリヤの軍隊は神の使いによって大打撃を受け引き上げました。その後、ヒゼキヤはバビニヤからの使者たちに王宮の宝を見せることによって自分を誇りました。それを聞いたイザヤは南ユダ王国がバビロニヤに滅ぼされることを預言しました。その預言の通り南ユダ王国はBC586年にバビロニヤに滅ばされてしまいました。
2、メシア預言について
メシア預言について、イザヤは三つのことを伝えています。
(1)救い主メシアの誕生の預言
イザヤ書7章1節「ウジヤの子ヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。」とあります。アッシリヤの国が大国となり、アラムの王とイスラエルの王が協力し、南ユダ王国も同盟に加えようと働きかけました。しかし、南ユダ王国がそれを拒んだために、アラムとイスラエルが協力して南ユダを攻めてきました。2節「ダビデの家に『アラムがエフライムと組んだ』という知らせがもたらされた。王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。」とあります。その時、主はイザヤにシェアル・ヤシュブ(残りの者が帰って来るの意味)を連れて、アハズ王に会いに行くように命じました。4節「彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない』と言い、アラムとイスラエルに南ユダが滅ぼされることはないと預言しました。さらにイザヤは11節「あなたの神、主にしるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。」と言いました。12節「アハズは言った。『私は求めません。主を試みません。』」「主を試みません。」とは敬虔な言葉のようですが、実は、それほど神を信じていないということを表した言葉です。13節14節「イザヤは言った。『さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエル(神はわれわれとともにおられるの意味)と呼ぶ。』この14節のことばを引用して、マタイはマタイの福音書の中で、イエスの処女降誕を神の預言の成就として紹介しました。実際にイザヤの時代に処女が身ごもったわけではありません。「おとめ」が身ごもり男の子を産み、その子にインマヌエル(神はわれわれとともにおられる)と呼ばれる名が付けられるという意味に考えられます。危機的な状況でも神がともにおられることを伝えようとしたものではないでしょうか。しかし、アハズは神に助けを求めず、アッシリヤに助けを求めこの危機を脱したのです。
(2)ダビデの家系から救い主が生まれる。
イザヤ書11章1節2節「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」とあります。「エッサイ」とはダビデの父の名です。新約聖書のマタイの福音書の最初にイエスの系図が記されています。マタイはユダヤ人に対してイエス・キリストが救い主であることを伝えるためにマタイの福音書を書きました。ユダヤ人にとってイザヤ書は旧約聖書の中でも権威ある書として受けとめられていました。このイザヤの預言のことばを通して、ユダヤ人は救い主はダビデの家系から生まれることを信じていました。それゆえ、マタイは、マタイの福音書の最初にイエスの系図を示すことによって、イエス・キリストが旧約聖書で預言された救い主、メシアであることを表したのです。しかし、ユダヤ人が求めた救い主は、ダビデのような勇敢な王であり、ローマ政府からユダヤの国を独立させる救い主だったのです。
(3)苦難のしもべの預言
イザヤ書53章に記されたのは苦難のしもべの姿でした。ユダヤ人たちはこのイザヤ書53章の姿を救い主の姿と受け入れることが出来ませんでした。彼らにとって救い主は栄光の姿であり、ダビデの様な偉大な王でなければなりませんでした。しかし、神がイザヤに示した救い主の姿は、「見るべき姿も輝きもなく」「私たちが慕うような見栄えもない」「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ」「悲しみの人で、病を知っていた」「人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。しかもその惨めな姿は、私たちの病を負い、私たちの罪の身代わりとなっての苦しみでした。また、それが神の御心であるとも記されています。誰がこのような惨めな姿の人を救い主と信じることが出来るでしょうか。プロテスタント教会の十字架にはイエス・キリストの惨めな姿はありません。それは、イエス・キリストの復活を強調するためだと聞いたことがあります。イエス・キリストは死より三日目に復活して天に昇って行かれました。それゆえ、十字架にはイエスの体はありません。しかし、カトリック教会の十字架にはイエスの苦しみの姿が残されています。それは、カトリック教会がイエスの贖いを強調しているからと学びました。カトリック教会でイエスの十字架を見た時、心が痛みました。自分の罪がわからない者には、この苦難のしもべの姿は理解できません。なぜ、救い主が惨めな姿で死ななければならなかったのか。そこに、イザヤのメッセージがあります。二千年前の十字架の上の惨めなイエスの姿は、自分の罪の結果ではありません。私たちの罪を身代わりに背負われた姿です。神は今もイザヤに与えられた神のことばを通して私たちに語りかけています。救い主とはだれか、なぜ、救い主は苦しみを受けなければならなかったのか。私たちはそのイザヤに与えられた神のことばをどのように受け、どのように応えるべきでしょうか。