エリヤの後継者エリシャ

列王記第二2章1節~15節

1、エリヤとエリシャの出会い(列王記第一19章)

エリヤはイゼベルの脅しを恐れて荒野に身を隠し神に死を願いました。疲れ果てたエリヤに神は食べ物と水を与え休息の時を与えました。また、エリヤは神のことばに従い神の山ホレブに向かいました。ここで、神はエリヤに三つのことを命じました。列王記第一19章15節16節「主は彼に言われた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。』」油注がれることは神が王や祭司、預言者を任命したことを表しています。エリヤはそこを去りエリシャを捜しに行きました。エリシャは十二くびきの牛を先頭に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していたとあります。エリヤは彼を見つけると自分の外套を彼に掛けました。自分の外套を掛けるとは、自分の後継者として任命することを意味していました。エリシャは牛を放ってエリヤの後を追い彼に言いました。20節「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」口づけをすることは別れの挨拶をすることです。エリシャが十二くびきの牛で耕していたことを考えると、農家の中でも裕福な生活をしていたと考えられます。彼がエリヤについて行くということは家族を捨て、豊かな生活を捨てるということです。彼は家族や友人を招いて最後の食事を取り、家族と別れてエリヤの弟子になったのです。

2、エリヤとの別れ(列王記第二2章)

列王記第二の2章に移って、エリヤが役割を終え天に引き上げられる時が近づきました。2章1節「主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げられようとされたときのこと」とあります。エリヤは誰にも見られずに天に上げられることを願ったのか、エリシャにここに留まっていなさいと言いました。しかしエリシャはエリヤに言いました。2節「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」エリヤはベテルでもエリシャに同じことを言いましたが、それでもエリシャはあなたから離れませんと言いました。エリコでも同じことが繰り返されました。二人がヨルダン川に来た時、エリヤが外套を丸めて水を打つと水が両側に分かれて、二人は乾いた地を渡りました。9節「渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。『あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。』するとエリシャは、『では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください』と言った。」とあります。ヨルダン川の水を分けて乾いた地を渡った出来事は、ヨシュアによってイスラエルの民がヨルダン川を渡ったことを思い出させます。ヨシュアに与えられた神の権威がエリヤにも与えられていることを表す出来事です。また、エリシャがエリヤの霊の二倍を求めたことは、イスラエルの民が財産を息子に譲る場合、長子は二倍の財産が与えられることが決められていました。ここで、エリシャがエリヤの霊の二倍を求めたことは、自分を後継者として任命されることを求めたということです。エリヤはエリシャに言いました。10節「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去れるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」エリヤがエリシャに「あなたは難しい注文をする」と言ったのは、自分の後継者は自分が決めることではなく、神がお決めになる事なので、自分には難しいことだと言い、それでも、自分が取り去られるのを見ることが出来たら、それこそが、神が私の後継者として選ばれた証拠であると言ったのです。11節「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現われ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天に上って行った。」とあります。12節「エリシャはこれを見て、『わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち』と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。」とあります。エリシャはエリヤが天に上げられる姿を見ることによって、神によりエリヤの後継者として任命されたことを自覚したでしょう。しかし、エリヤとの別れを悲しみ、自分の感情を抑えることが出来ずに、自分の衣を引き裂いたのです。13節14節「それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられるのですか』と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。」とあります。エリシャは自分がエリヤの後継者であることを証明したのです。また、15節「エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をした。」とあります。

3、エリシャの働き

この後、エリシャの働きが紹介されていきます。三章において、アハブの子ヨラムの時代モアブの王が背きました。そこでヨラムはユダの王ヨシャファテに協力を願いエドムの王と共に戦いに出かけました。しかし、旅の途中で水が無くなり彼らは動くことが出来なくなってしまいました。この時、ヨシャファテは言いました。3章11節「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか。すると、イスラエルの王の家来の一人が答えた。『ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。』」そこで、三人の王はエリシャのもとに向かいました。エリシャはヨシャファテのために乾いた地に水を湧き出させ、彼らを助けました。また、4章において、預言者の仲間の妻が夫を失い経済的に困っていました。エリシャはその妻と子どもに空の壺を集めさせ、その中に油を満たすことによって、彼らを経済的な危機から助けました。また、5章にはアラムの将軍ナアマンのツァラアトを治す話があります。このようにエリシャは、身近な人々を助け、政治的にもイスラエルの国を支えました。エリシャが死の病を患っているとき、イスラエルの王ヨアシュは彼の病をいたみ「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだとあります。それほどエリシャはイスラエルの国において大きな影響力があったことを表しています。

エリヤもエリシャも神に選ばれた預言者でした。彼らは神から与えられた使命を全うし地上での生活を終えて天に召されました。神は、私たちをも選び使命を与えておられます。エリヤやエリシャのような人生ではなくても、神の助けと導きはあります。私たちの人生は自分一人の人生ではなく、神に与えられた人生です。神は私たちを祝福したいと願っています。自分の力に頼って生きる時、困難や苦しみがあります。確かに神を信じていても困難や苦しみはあります。神を信じて生きるとは、困難や苦しみがない人生ではなく、困難や苦しみがあっても神の助け、神の慰めがある人生です。イエスのたとえ話に砂の上に建てた家と岩の上に建てた家があります。マタイの福音書7章24節~27節「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」ここでいわれている岩の上とは、イエス自身または、イエスの教えを表いています。砂の上とは、自分自身やこの世の教えを指しています。イエスのことばは二千年間変わりません。しかし、この世の教えは時代と共に変わってきました。明日のこともわからない自分に頼る道は砂の上に建てた家です。しかし、イエスに頼る人生は岩の上に立てられた家です。私たちはどちらの人生を選ぶべきでしょうか。