預言者エリヤの力の秘密

列王記第一19章1節~8節

旧約聖書の中で偉大な預言者といえばエリヤの名を思い出します。彼は北イスラエル王国で活躍した預言者です。当時、北イスラエル王国はアハブという王が治めていました。列王記第一16章30節~33節「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。」とあります。この時、イスラエルの民が犯した偶像礼拝の罪により国は乱れていました。そんな状況の中で、神はもっとも偉大な預言者エリヤを遣わされたのです。

まず、はじめにエリヤが行ったことは、神の裁きによる干ばつの宣言です。バアルやアシェラの神々は豊穣の神として崇められていました。17章1節「ギルアデの住民であるティシュべ人エリヤはアハブに言った。『私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間は露も降りず、雨も降らない。』」エリヤはバアルやアシェラの神々を信じるアハブに対して、イスラエルの神とどちらが本当の神であるのかを示すために、それから数年、露も雨も降らないと宣言したのです。しかし、アハブ王は干ばつの中、悔い改めることがありませんでした。そこで、エリヤは直接、バアルの預言者たちと戦うことを決意しました。18章18節、19節「エリヤは言った。『私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。』」エリヤとバアルの預言者たちはそれぞれ、カルメル山に祭壇を築き、その上に雄牛を切り裂き薪の上に載せました。そして、それぞれの信じる神に祈り、天から火が下りいけにえを焼き尽くした神こそ真の神であることを証明する戦いを行ったのです。26節「そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。『バアルよ、私たちに答えてください。』しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。」28節29節「彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼を過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。」それに対してエリヤは36節~38節「ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。』すると、主の火が下り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。」それを見たイスラエルの民は39節「民はみな、これを見てひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った。」とあります。エリヤはイスラエルの民に呼びかけ、バアルの預言者たちをキション川で殺しました。これで問題が解決したかというとそうではありません。この事がアハブの妻イゼベルに伝わると、19章2節「するとイゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。『もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』」イゼベルは自分の信じるバアルの預言者たちを殺されたことを怒り、エリヤを殺してやると脅したのです。エリヤはどうしたでしょうか。3節4節「彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うために立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。』」エリヤはイゼベルを恐れ逃げて自分の死を神に願ったのです。それまでのエリヤの姿からは想像できない姿です。しかし、これもエリヤの本当の姿です。私たちは表面に現れた強い姿だけを見て人を判断しやすい者です。バアルの預言者たちと戦った勇敢なエリヤの姿も彼の姿であり、また、イゼベルを恐れ死を願うエリヤの姿もまた彼の本当の姿なのです。

新約聖書に登場するパウロはコリントの教会に宛てた手紙でこのように告白しています。

コリント人への手紙第二12章9節10節「しかし主は、『わたしの恵はあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」あの大使徒パウロも、自分の強さではなく、自分の弱さを誇ると告白しています。自分の弱さを認め神に信頼し助けを求める者こそ本当に強い人です。この世の知恵は自分の弱さを認めてはいけない、頑張って自分の力を信用しなさいと教えます。しかし、神は自分の弱さを受け入れ、神に助けを求める者と共におられると聖書にあります。問題は、自分の知恵と力に頼るか、自分の弱さを受け入れ神に助けを求めるかです。士師記に登場するギデオンもそうでした。ミディアン人との戦いの時、ギデオンの呼びかけによりイスラエル兵三万二千人が集まりました。神はそれを見て兵が多と言われました。神は彼らが自分たちの兵力に頼り、また、自分たちを誇るといけないと考えたのです。そこでギデオンに恐れおののく者は帰りなさいと呼びかけるように命じました。すると二万二千人が帰り、一万人が残りました。神はそれでも多いと言い、結局、ギデオンたちは三百人でミディアン人と戦い大勝利を得たのです。私たちは目に見える物に頼り、自分を誇りやすい者です。神は自分の弱さを受け入れ、へりくだる者と共におられるとあります。エリヤの強さは、彼が神の前に正直に自分の弱さを差し出すところにありました。神はその弱さを受け入れ、彼を助け必要な物を与えてくださいました。私たちはどうでしょうか。自分の力を誇る者に神の助けは必要ありません。自分の弱さを受け入れ、神に助けを求める者を神は見捨てることはありません。神は私たちがどのような状態でも愛し助けてくださるお方です。それを信じることが私たちの信仰の力なのです。