驚くばかりの神の恵み

「驚くばかりの神の恵み」ヨハネの手紙第一4章9節10節

驚きには、うれしい驚きと、うれしくない驚きの二種類があります。だれだれが結婚したとか、どこどこに、こどもが生まれたというのはうれしい驚きです。反対に、熊本に起きた地震は私たちに恐れと、驚きをあたえました。地震の専門家も誰も予測できない地震でした。また、その中で、新しい耐震基準を満たした新しい建物が崩壊したのは、専門家にとって大きな衝撃でした。今回、震度7の地震が二度も引き続いて起こりました。今まで、震度7以上の地震が引き続いて起こるなど、だれも予測できないことだったのです。人間の考える範囲の出来事であったら、だれも驚く者はいないでしょう。人間の常識、想像を超えた出来事だったからこそ、人々は、おびえ、驚いたのです。

1、神が人としてお生まれになられた驚き。
新約聖書の中で、なぜ、イエス様があんなにもユダヤ人に嫌われ、十字架に着けられ、殺されなければならなかったのか、私たち日本人には、中々理解できない出来事です。そこには、ユダヤ人と日本人の神観の違いが大きく影響しています。ユダヤ人にとって神様とは天地創造の神であり、唯一の存在です。またその神は偉大なお方です。ユダヤ人にとって、その偉大な神が、罪人である人間と同じになるなど考えられないことでした。それゆえ、裁判の席で、大祭司はあえて、イエス様に「あなたは神の子キリストかどうか」問い詰めたのです。もし、この時、イエス様が自分は神様から遣わされた預言者であると答えたならば、大祭司はイエス様を死罪に定めることはできませんでした。イエス様はそれを知りながら、あえて、神様の計画に従い十字架で死ぬために、ご自分が神の子であることを認められたのです。日本人の神観は八百万の神々です。何でも、神様に祭り上げます。へびでも、きつねでも不思議な現象を見るたびに、日本人は様々な動物を神様として崇めてきました。将軍や天皇さえ神々として崇める国民です。そんな日本人である私たちと、ユダヤ人との間には大きな隔たりがあります。イエス様がご自分を神と認められたとき、多くのユダヤ人はイエス様に憎しみを覚えたのです。イエス様の弟子たちですら、イエス様が死んで三日目に復活して、自分たちの前にイエス様がその姿を現されるまで、イエス様が神の御子であることを信じることができなかったのです。ユダヤ人にとって、それほど、神様が人として生まれることを信じることができない大きなつまずきであったのです。

2、神の子が十字架の上で殺された驚き。
もう一つ、私たちが受け入れられない出来事に、イエス様の十字架の死があります。神の子がなぜ、殺されなければならなかったのか。死とは敗北であり、失敗を意味します。それゆえ、多くの人々は、イエス様の十字架の死を救いの失敗と考えたのです。ましてや、神の子が人間に捕らえられ、辱められ殺されるなど誰が信じることができるでしょう。それゆえ、初代教会の頃から一つの異端が生まれました。それをグノーシス主義と呼びます。彼らは、当時の哲学の影響を受け、霊的なものは善、肉的なものを悪と受け取り、物事を二つに分けて考えるようになりました。この考えを二元論とも呼びます。彼らの考えでは、神が人間に捕らえられ十字架に着けられ殺されるなど考えられないことでした。それゆえ、彼らは、神が人間イエスに宿り、救いのことばを語り、十字架に着けられ殺されるとき、イエスの体から離れて天に昇って行ったと教えたのです。たしかに、それであるならば、神が人と同じように生まれることもなく、神が人間に殺されることもありません。そう考えた方が人間的には理解しやすいかもしれません。しかし、そうであるならば、神様の愛である性質はどのように現されるのでしょうか。聖書は、神である主は、罪人である私たちを救うために、神のひとり子を人としてこの世に送られたとあります。また、それが神の愛の表れであると教えています。神が私たち罪人の中に生まれ、私たちを救うために十字架で死なれたということを誰が信じることができるでしょう。これは神様の御業であり、人間の理解を越えた世界なのです。

3、罪人が何の努力もなく救われることの驚き。
神様が私たちに与えてくださる救いは、私たちが努力して得るものでも、正しい者になって受け取るものでもありません。救いは、イエス・キリストを神の子と信じるすべての者に与えられると聖書は約束しています。日本人の男性の多くは、達成感を大切にします。仕事でもなんでも、努力して得た物ほど価値があると考えます。逆に、何の努力もしないのに得た物にあまり価値を見出しません。もし、イエス様の教えが、努力して救いを得る教えであったなら、もっと多くの日本人男性が教会に集うのではないかと思います。しかし、神様の計画はそうではありませんでした。私たちの考えでは、救われて天国に入る者は、正しい生き方をした人、立派な行いをした人。世界に功績を残した人。事業に成功した人などを考えがちです。しかし、聖書ではそのように教えていません。誰でも救われると教えています。人殺しでも、強盗を働いた者でも。不正で富を築いた者でも。ただ一つ条件があるとすれば、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを神の子と信じることです。イエス・キリストを神の子と信じるということは、イエス・キリストの十字架の死は、自分の罪の身代わりの死であることを信じるということです。讃美歌の中で一番有名なのが、アメージンググレイス、驚くばかりのという讃美歌です。この讃美歌を作ったのはジョン・ニュートンです。彼の両親は敬虔なクリスチャンで、彼自身も子供の頃教会に通っていました。ところが、彼の両親が亡くなると、彼は船乗りとなり教会から離れてしまいました。当時の航海ですから、台風や大風のために船が何度も危険な目に遭いました。しかし、不思議にジョン・ニュートンだけは不思議に助かりました。ある日、ジョン・ニュートンの船に牧師が乗船しました。その時、ジョン・ニュートンは久しぶりに聖書の話を聞きました。そこで、彼は神様の愛の話を聞き、自分は神様を遠い昔に捨てたと思っていたが、神様がそんな私を今でも愛しておられることを知り、彼の人生は180度変えられました。彼は、船を捨て、牧師となり多くの人々に、自分のような者さえ神様は救ってくださるのだと証したのです。その自分の体験を歌にしたのがアメージンググレイスです。多くの罪が赦された者は、大きくその者を愛するとあります。罪の赦しと愛(感謝)は比例します。ジョン・ニュートンは、自分が船乗りとしてどれだけ多くの者を傷つけてきたか良く知っていました。それゆえ、自分のような罪人は救われる価値がないと信じていたのです。しかし、神様の愛はそうではありませんでした。例え、私が神様に背を向けても、神様は変わらない愛で私を助けてくださった。そのことの感謝と感動があの素晴らしい讃美歌となったのです。私自身も同じ体験をしました。私のような者は救われる価値のない者だと思いましたが、それでも、神様は私を救ってくださいました。そして、さらに、神様のために働くようにと、神様から召命を頂いて牧師になったのです。ペテロは、自分がイエス様を三度も知らないと言ったにもかかわらず、イエス様がその罪を赦してくださったという感動がありました。パウロは自分がキリスト教を迫害したにもかかわらず、イエス様の恵みによって救われたという驚きがありました。私たちの心の中はどうでしょうか。イエス様の恵みによって救われたという、感動と驚きがあるでしょうか。この感動と驚きが私たちの信仰生活を支えているのです。