「あなたの一ミナで十ミナもうけました」ルカの福音書19章11節~27節
今日の聖書の箇所はミナの例え話として有名な箇所です。このお話の意味を正確に知るためには、イエス様が何故、群衆にこの例え話をお話になられたのか、その状況を正確に知る必要があります。11節を見ると「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえ話をされた。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからある。」とあります。「これらのことに耳を傾けているとき」とは、イエス様がザアカイの家で群衆に話をしている時と考えられます。また、イエス様がエルサレムに近づき、人々がイエス様によって神の国が誕生すると期待が高まっていた、そのような状況でこのミナの例えは話されたという事です。それゆえ、このミナの例え話は、世の終わり神の国についてのたとえ話という事です。
12節「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。」ここで言われている「身分の高い人」とは、イエス様のことを表しています。また、遠い国とは、父なる神のおられる天の御国を表しています。13節「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った『私が帰るまで、これで商売をしなさい。』」イエス様は私たちの罪の身代わりで十字架で死んだ後、三日目に復活して父なる神のもとに上って行かれました。また、弟子たちにはもう一度、戻ってこられると約束をされました。世の終わりのとき、イエス様は雲に乗ってもう一度戻って来られると聖書に預言されています。また、主人は一人一人に一ミナ(約百万円)を預けてこれで商売をするように言われました。似たようなお話がマタイの福音書にもあります。タラントの例え話と言われるものです。ルカの福音書では、10人に同じように一人一ミナが預けられました。タラントのたとえ話では、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラント。また預けられた金額がしもべの能力によって違います。この、タラントという言葉からタレントという言葉が生まれたと言われています。明らかに、マタイの福音書のたとえ話は、与えられたタラント(能力)をどのように用いたかを教える例え話です。ミナの例え話は、与えられた金額が同じですから。その人に与えられた能力ではありません。ミナは神様が私たちに与えてくださった信仰と言えます。信仰も神様からの贈り物です。その信仰をどのように用いたかが教えられる例え話なのです。世の終わりの時、全てのものは神様の前に立ち、自分の行いについて説明しなければなりません。それは、クリスチャンも同じです。ある人は、主人から預かった一ミナを働かせて十ミナ儲けましたと報告しました。主人は彼を褒め、十の町を支配する者になるように言われました。二番目の者は、五ミナ儲けましたと報告しました。主人は彼に五つの町を治めるようにと言われました。もうひとりは、主人から預かった一ミナをそのまま主人返しました。彼は何故、自分が主人から預かった一ミナを働かせなかったのか理由を主人に述べています。21節「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものを取り立て、お蒔きにならなかったものも刈り取る方ですから。」一ミナを隠したしもべは、主人を恐れて、預かった主人の一ミナ減らさないために、あえて、一ミナを働かせないで、風呂敷に包んで大切に保管していましたと主人に報告したのです。主人は怒ってこのしもべに言いました。22節「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていたというのか。23節「だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。」そう言って、主人は彼の一ミナを取り上げて十ミナ儲けた者にあげなさいと言いました。10人のしもべに与えた十ミナは、主人が帰るまでにこれで商売をするように言われて預けられたものです。しかし、最後の者は、主人を恐れてその一ミナを減らさないように隠してしまいました。当時の両替人は現在の銀行の働きもしていたようです。人々から利子を付けてお金を集めていました。主人は、たとえ一ミナでも、銀行に預けるだけで利子がもらえる、それさえもしなかったしもべの怠慢をせめたのです。ミナの例え話の結論は26節「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。」「持っている者」信仰をしっかりともって働かせる者にはさらに信仰が与えられます。しかし、「持たない者」とは、神様から信仰を与えられても働かせない者は、神様から与えられた信仰さえ取り上げられてしまうという事です。
以前、お金持ちの役人のお話をしました。イエス様は彼に、財産を貧しい人に施してその上で、わたしに従って来なさいと言われました。しかし、彼はイエス様の下から去っていったとあります。彼は、財産に守られた生活を捨てることができなかったのです。信仰とは神様だけに頼り、神様のことばに従って生きることです。そのために、礼拝を守る。聖書を読む。献金をささげることが大切です。しかし、礼拝を守ること、聖書を読むこと、献金をささげることが信仰を働かせるという事ではありません。それは、信仰的な行為ではありますが、信仰を働かせることとは違います。礼拝を守ること、聖書を読むこと、献金をささげることは、信仰を支える土台ではあっても、信仰とは、礼拝を守ること、聖書を読むこと、献金をささげることが目的になってしまっては、意味がありません。礼拝を守ること、聖書を読むこと、献金をささげることは、あくまでも、私たちが信仰を働かせるための土台であるからです。もちろん、土台がぐらついていては、信仰を支えることはできません。信仰とは、神様を信頼して、その言葉に従うことです。マタイの福音書7章24節から、イエス様の例え話、砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家のお話があります。洪水が来るまで、二つの家は同じように見えました。しかし、洪水が起こることによって家の土台が明らかにされたのです。岩の上の家は、土台が崩れず家も倒れませんでした。しかし、砂の上に建てられた家は、砂が崩れ、家も倒れてしまいました。普段の生活では、土台の状態はわかりません。しかし、試練の中に置かれたときに、はじめてその人の土台が明らかにされます。信仰を働かせるとは、神様だけに信頼するという事です。一ミナを隠したしもべは、主人を恐れ信頼していませんでした。私たちは、どんな時でも、どんな状況に置かれても、神様だけを信じて苦しみを乗り越えられ、信仰を働かせることができるでしょうか。このミナの例え話はそのことを私たちに問いかけているのです。