「わたしは、よみがえりです。いのちです。」

「わたしは、よみがえりです。いのちです。」ヨハネの福音書11章17節~46節

ルカの福音書では、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入場する前までお話をしました。ヨハネはイエス様がエルサレムに入場される前に、死んだラザロを生き返らせるという奇跡のお話を記録しています。この奇跡の出来事は、マタイ、マルコ、ルカの福音書には記録されていません。ヨハネの福音書は、イエス様の弟子ヨハネが晩年AD90年代に書いたと言われています。この時期になると、教会も世界中に広がり、各教会で、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書などは朗読されていました。ヨハネはこの三つの福音書に書かれていないことを補足する目的でヨハネの福音書を書きました。また、ヨハネは、当時、弟子たちにはわからなかったことが、晩年になってイエス様の言葉を黙想し、新たに気付いたことをヨハネの福音書に書いたのです。ヨハネは、イエス様がただ、死んだラザロをよみがえらせたというだけではなく、ラザロを生き返らせることに大切なイエス様のメッセージに気付いたのです。

ヨハネの福音書11章1節でマルタとマリヤの弟ラザロが病気で苦しんでいることがイエス様のもとに知らせが来ました。マルタとマリヤはイエス様にラザロの病をいやして欲しくて、イエス様に急いで使いを出したのです。この知らせを受けてイエス様はどうされたでしょうか。4節「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」また、6節にさらに二日とどまられたとあります。イエス様はすぐにラザロを助けに行きませんでした。それどころか、さらに二日とどまることによって、ラザロが完全に死ぬ時を待っておられてのです。イエス様がラザロのところに来たのは、ラザロが墓に入れられて四日後のことでした。イエス様がすぐにラザロのところに駆けつければラザロは死ぬこともなく病もいやされたことでしょう。しかし、イエス様はこの時が神様の栄光を現すときであり、それは、死人をよみがえらせるという奇跡によって、ご自分が誰であるかを公に知らせる時が来たことを知られたからでした。

ヨハネの福音書11章20節21節「マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエス様に向かって言った『主よ。もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょう。今でも私は知っています。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。』」マルタはイエス様が神様から遣わされた預言者であるとは信じていました。それゆえ、イエス様がラザロの病をいやすことができると信じていたのです。それゆえ、イエス様に急いで使いを遣わせたのに、イエス様は間に合うことができなかった。なぜ、もっと早く来て下さらなかったのかと、イエス様に自分の悲しみを訴えているのです。イエス様は彼女に言われました。23節「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエス様に答えました。24節「私は、終わりの日のよみがえりのときに、彼がよみがえることを知っております。」ユダヤ教の教えでも、世の終わりに義人のよみがえりについて教えられていました。イエス様は彼女に言われました。25節26節「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」イエス様を信じるという事は、イエス様を神から遣わされた預言者と信じることではありません。イエス様を神の子、神と同じ権威を持ったお方であることを信じることです。マルタはイエス様に答えました。27節「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると、信じております。」

ヨハネの福音書11章32節マリヤがイエス様のところに来てイエス様に言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」マリヤもマルタと同じように、イエス様を神から遣わされた預言者としか理解していませんでした。それゆえ、ラザロが死ぬ前に来てくださったならラザロの病をいやすことができたのにと、ラザロが死んだ悲しみをイエス様に訴えたのです。それは、周りの群衆も同じでした。37節「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」という者もいた。とあります。イエス様はご自分に対する周りの理解の足りなさに憤りを覚え、墓を塞いでいる石を取りのけなさいと命じられました。マルタはイエス様に言いました。39節「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」マルタはまだイエス様がなさろうとされていることを理解できませんでした。イエス様は彼女に言われました。40節「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったでなありませんか。」イエス様はもう一度、マルタの信仰の確信を強めました。そして、彼らが石を取り除けると、イエス様はラザロに墓から出てくるように命じられたのです。すると、包帯に巻かれたラザロが歩いて墓から出てきたのです。人々は、よみがえったラザロを見て驚き、多くの人々がイエス様を神の子と信じたのです。

この出来事がエルサレムにも伝えられ、イエス様がエルサレムに入られるとき、大勢の群衆がイエス様をメシヤとして大歓迎で迎えました。しかし、彼らはイエス様に、ローマ政府からユダヤの国を独立させる王を求めていました。ところが、イエス様はそのために神様から遣わされたメシヤではありませんでした。その群衆の失望がイエス様の十字架の死を招き、イエス様は律法学者たちに囚われて、裁判にかけられ死刑の刑罰がくだされたのです。イエスとは誰で、何のために生まれたお方でしょうか。それは、神の子であり、人々の罪の身代わりとなり十字架で殺され復活されるために生まれたお方です。私たちは、イエス様を神の子と信じることによって救いを受けるものです。イエスとは、誰で、何をされたお方なのか。いのちに終わりある私たちには重要な問題です。神は私たちを天の御国に入れるために、ひとり子をこの地上に遣わして下さいました。しかし、ユダヤ人たちはイエス様のことばを信じることなく、十字架につけて殺してしまいました。私たちはイエス様を何と信じるでしょうか。彼は、預言者。彼は律法の教師。彼はキリスト教の教祖。彼は聖人。様々な意見があります。聖書はイエス様を神の子と教えています。あなたは誰のことばを信じますか。